神のア・ポステリオリな証明
デカルトが第三省察で行った、神のア・ポステリオリな証明についても簡単に見ておこう。
我の不完全性の意識
我の不完全性についての意識は、「我と異なる原理で動くものの存在が強力に意識される」「我が単独では存在できないこと、他のものを要請することが強力に意識される」の二つに分けることができる。
私は、部屋の外に飛び出すことで、私の知らない行動をし、私の意に沿わず、時には私を傷つけさえするものに出会うことになる。これは、暖炉の傍で一人で考えていたときには起こらなかったことだ。そこでは、実在しない怪物でも、目の前にはいない人でも、何でも虚構することができたかもしれない。しかし、それらはこのような性質は持っていなかったはずだ。それは、私が知ってる範囲内のことしか行わず、私の意に背くこともなく、私を傷つけることもなかっただろう。ここから、この観念の原因として、私とは異なるものの存在を認めることになる。
また、私は外に出ることで、自身の脆弱性を意識させられる。吹き付ける風は体を凍えさせ、時間が経てば空腹を覚えるだろう。自己を維持するには食料、あたたかい住居、身にまとう服、といったものが必要になるわけだ。私は単独では存在できず、なにか別のものを必要とする。そしてそれが手に入るか否かを決めるのは私ではない。自然全体の秩序と連結で決まるわけだ。
さらに言えば、そもそも私が現にあることすら、私以外の何かを原因としていることがわかるだろう。私が生じたのは両親がいたからだ。その両親の原因として、そのまた両親がいる。この連鎖は無限にたどることができる。やがて、自然全体の秩序と連結により、私が今あるものとして存在するのだ、という考察に行き着くだろう。そして、現に存在する私がこの先に存在するか否かも、やはり自然全体の秩序と連結に規定されるわけだ。
物体の貶め
我の不完全性の意識は、我の実体性の否定につながることになる。デカルトはこれを捻じ曲げるため、物体は精神と全く異なり、かつ劣るものであると強力に主張する。
例えば、物体に認められる性質は、すべて精神のみで作り出せると主張する。
しかし物体的な事物の観念に関しては、私自身に由来しえたとは思われないほど大きなものは何もそのうちにはない。
さらに、精神の微細な作用を物体は生み出すことができないと主張する。
そして私は、両親とか、神ほど完全ではない何か他の原因によって、生み出されたのかもしれない。いな、けっしてそうではないのである。(…)私の原因として結局、どのようなものがわりあてられるとしても、それはまた考えるものであり、私が神に帰するすべての完全性を有するものである、と認めなくてはならないのである。
これらの主張を妥当とするか否かは、判断の分かれるところだろう。少なくとも、方法的懐疑の過程のような厳密さは存在しない。だが、デカルトに説得され、物体と精神は全く別物であり、物体が精神を生み出すことなど絶対にありえない、という一致を受け入れたなら、我の不完全性を認めたとしても、我の実体性を否定せずに済むのだ。
表現的実在性
デカルトは、「意に沿わない」「知らない様々な行為をする」「自己を傷つける」といった外的対象の存在を示す観念の性質を、表現的実在性(realitas objectiva)という言葉で表す。観念にはそれの原因となるものがあり、かつそれにリアリティを感じる、といった意味だ。暖炉の傍にいたときに思い描いた観念には表現的実在性がないが、眼前でしゃべっている人の観念には表現的実在性がある、という言い方になるわけだ。
この表現的実在性があるように思われるものが二つある。一つが物体であり、もう一つが神だ。
このうち物体については、これは私の精神で作り出せるとして、その表現的実在性を否定する1。そこに見出す延長といった性質は、たしかに私の精神とは全く異なったものである。だが、物体が精神よりも劣っている以上、私が知らぬ間に作り出した可能性がある、とするわけだ2。
ついで、神について考察する。デカルトが何を神と呼んでいるかについては、先に見た通りだ。我々は、「それが存在しない事態を考えることができないもの」、すなわち神の観念を持つ。これを私が作り出せるとは全く思えない。我が存在するのが確かであれば、こうして意識される神もまた存在することになるだろう。こうして、神の存在を証明する。
我の存在の原因
デカルトは、我の存在の原因になりうるものとして、物体と神についてそれぞれ考察する。
このうち物体については、そこから精神のような微細なものが生じるわけがない、として否定する。こうして、我の存在の原因として、神の存在を証明する。
我を、自然全体の秩序と連結と全く無関係なものとしているため、この証明はところどころ不明瞭で無理のあるものになっている。例えば両親については、次のようなよくわからない説明をしている。
むしろ両親はただ、私すなわち精神(いまは精神のみを私と認めている)がそこに内在していると私が判断しているあの質量のなかに、ある傾向を置いたにすぎない。
また、我が未来において存在することについても、デカルトはうまく説明できない。我が今後も存在するには、食料なり空気なり大地なりの物体を要する、という当然のことを認めることができないからだ。そうして、その説明は、「我という実体が、神によって連続的に創造されている」という理解に苦しむものになっている3。
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物体的事物の観念において明晰判明であるもののうち、あるものは私自身の観念から借り出すことができたと思われる。(第三省察) ↩
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次に、それらの観念が私の意志に依存しないとしても、だからといって、それらが私の外に置かれた事物から必ず出てくるということにはならない。(…)私の能力のうちには、まだ私には十分知られていないが、その観念の作り手となる他の能力が、おそらくあるかもしれないからである。(第三省察) ↩
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なぜなら、人生のすべての時間は無数の部分に分割されることができ、しかもその各部分は、残りの部分にいささかも依存しないので、私が少し前に存在したことから、私がいま存在していなければならないということが帰結するためには、何らかの原因が、この瞬間に私をいわば再び創造する、つまり私を保存するということがなければならないからである。(第三省察) ↩