総合的方法と分析的方法

『エチカ』は総合的方法に従って叙述された著作である。ここでは、総合的方法と、その対になる分析的方法について詳しく考察しよう。両者とも、自分が知っている知識を他者に伝えるための方法である。

分析的方法

我々が、自分が新しく発見したことを誰かに伝える際には、その発見に至る過程を相手に追体験させる形で説明することが大半だろう。自分の問題意識は何だったか、それを解決するためにどのような試みをしたか、どのような道筋を経て結論に至ったか、というように。これが分析的方法である。注意深く、誠実な者が相手であれば、この方法が最善となる。

分析的方法の問題点

だが、注意深くなく、敵対的な者を相手とする場合は、分析的方法は適切ではない。相手がこちらの説明を話半分にしか聞いていないことや、把握済みだろうと思って省略した言葉の定義や理論の説明を、相手が理解していないことが多々あるからだ。そして、とっくに説明済みの内容に不同意を示して、これまでの議論をひっくり返そうとしたり、「君の言葉の使い方は不明瞭ではないか」「君の使っている理論は不確かではないか」と言って話の腰を折り、議論を台無しにしようとしたりするのである。特に、こちらの主張が気に食わないものである場合、こういった相手はなんとしてでも同意を避けようとするだろう。

総合的方法

このような、注意深くなく敵対的な者に対処するには、どうすればいいだろうか。それには、

  • 最初に、相手の使う言葉と理論を、定義と公理の形にまとめる
  • 定理を連ねる形で、一致点を積み重ねる

ということをすればいい。これが総合的方法である。

定義を使う利点

最初に定義の形で相手の言葉をまとめるのは、相手が言葉の曖昧さを利用して、言い逃れをする余地を潰すためである。
分析的方法であれば、相手は不利になったとき、「この言葉の用い方について、君と私との間にはズレがある。君がそのような意味でこの言葉を使っていたのだとしたら、私は君の主張に同意していない」と言って、それまでの議論をひっくり返す可能性がある。だが、総合的方法であれば、最初にまとめた定義を指し示しながら「最初から君が定義した言葉しか用いていないんだが、君は一体何を言っているんだ?」「議論の途中で気が変わって、君自身が使っていたこの言葉が気に食わなくなったとでも言うのかい?」「君の主張は支離滅裂だが、それならそれで私は構わないよ。では、これからは君が好きな言い方を用いようじゃないか。ほら、早く再定義してみてくれ」と言い返すことができるわけだ。

定理を使う利点

定理を連ねる形で叙述するのは、それによって相手が議論を途中でひっくり返す余地を潰せるからである。
これなら、議論の途中で相手が不同意を示してきた場合、「君はどの定理について不同意だと言うのか」と尋ねられるわけだ。相手が「この定理で不同意だ」と言ったなら、その定理の証明に用いた定理を指し示せばいいのである。それは、もちろん既に相手が同意済みのものだ。
さらに、ここで指し示した定理から、さらにその定理の証明に用いた定理へと遡ることもできる。そこで現れる定理もやはり、既に相手が同意済みのものだ。こうして遡っていくと、最終的には、相手の言葉である定義と、相手の認めている理論である公理に行き着くわけだ。

総合的方法の特徴

このように、相手からの同意の奪取を追求すれば、その叙述形式は総合的方法になるのである。デカルトは、総合的方法を「定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用」するものであり、「もしも帰結の一つが否定されれば、それが先行のうちに含まれていることをただちに示し、どれだけ敵対的な読者であっても、恒久的な同意を奪取するため」の方法である、としている。
ただし、議論の相手に満足を与えないという点では、総合的方法は分析的方法に劣る。というのは、総合的方法では、結論に至る過程を追体験させることができないからだ。それゆえ、同意はするが納得はしないという状態になりがちなのである。

デカルトとスピノザ

総合的方法と分析的方法の区分は、デカルトが提唱したものである。デカルトが好んで用いたのは分析的方法であり、総合的方法に基づいた叙述は稀にしかしていない。『省察』も、自分の行った省察を追体験させる分析的方法で叙述されている。
ただ、『省察』は事前にありうる反論を想定し、それに対する回答を用意した上で、それを適切な箇所に配置した構成になっている。特に方法的懐疑の箇所では、議論の相手を限定したうえで、その者からの同意の奪取を目的とした議論を行っている。以上の点で、デカルトは総合的方法を使っているとも言える。デカルトが敢えて分析的方法の叙述形式にしたのは、そちらの方が教授方法として優れていると考えたからだろう。
総合的方法と分析的方法については、デカルトは『省察』第二答弁で詳述している。

分析(Analysis)は、事物が方法的に、いわばア・プリオリに見いだされた真の道を示すものである。もしも読者がこの道を辿ろうとし、かつ全てに十分に注意しようとするならば、事物を完全に理解し、自分のものとするだろう。それは、自分自身で見つけ出した場合に劣るものではないだろう。しかし、注意深くない読者や、敵対的な読者を確信に向かわせることはできない。それは、この証明法の提示するもののうちに少しでも気づかれないものがあるなら、この結論の必然性は明らかではなくなるからであり、また、特に注意しなければならない多くのものに、十分に注意する者には明確であるという理由で、ほとんど触れないことがしばしばあるからである。総合(Synthesis)は逆に、反対の道、すなわち、ア・ポステリオリ(とはいえ、この証明はしばしば分析的方法よりもア・プリオリではあるが)な問いにより、結論されたものを明晰に証明する。その際には、定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用する。それは、もしも帰結の一つが否定されれば、それが先行のうちに含まれていることをただちに示し、どれだけ敵対的な読者であっても、恒久的な同意を奪取するためである。しかし、分析のように満足させることはないし、学ぼうという欲求を持つ精神を満たすこともない。というのも、事物が発見された仕方を教えないからだ。

スピノザは、『デカルトの哲学原理』のマイエルの序文で、総合的方法と分析的方法について言及している。『省察』第二答弁を踏まえたものになっており、内容は大差ない。『エチカ』は、この総合的方法に基づいて叙述されたのである。

尤も、この比類ない著名な人物の哲学に関する諸著作は、なるほど数学における証明方法と秩序とに従っているものではありますが、しかしそれはユークリッドの幾何原本やその他の幾何学者たちの書に普通用いられた方法、即ち定義、要請及び公理をまず先におき、定理とその証明がそれにつづくという方法によって仕上げられているのではありません。デカルトの方法は、むしろこれと極めて異なったものでありまして、彼自らその方法を真実にして最善なる教授方法となし、これを「分析的方法」と名づけています。というのは、彼は「第二駁論への答弁」の終りのところで、不可疑的証明方法に二種類あることを認めております。一は分析的方法で、それは「対象を方法的に、そしていわばア・プリオリに発見する真の道を指し示す」ものであり、他は総合的方法で、それは「定義、要請、公理、定理及び問題の長い系列を用い、従ってそれは人がそのいずれかの結論を否認する場合、その結論が前提の中に含まれていることを直ちに示すことができ、このようにしてどんなに反抗的で強情な読者からも同意を奪取することができる」ものなのであります。

デカルト、スピノザ以外の哲学

分析的方法と総合的方法の区別に到達していない哲学は、方法論において未熟で、学問の域に達していないものとして整理されることになる。デカルト以前の哲学は、「尤もらしい蓋然的な論拠」を持つものに過ぎず、「論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山」を生み出しただけだった。そして、薄弱な根拠で否定したものが、また別の薄弱な根拠で否定される、という無駄な事態を招いていた、と『デカルトの哲学原理』では書かれている1。このような状況だったからこそ、デカルトは明晰判明の規則を求めたわけだ。
だが、デカルトとスピノザの成果が、哲学において根付くことはなかった。私には、現在においても「尤もらしい蓋然的な論拠」しかない「論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山」が築かれているように思える。


  1. しかし、事情はこうでありますものの、諸君の見られる通り、数学を除いては、ほとんどどんな学問も、この方法で処理されていないのです。これと天地の相違のある他の方法、即ち、定義と分類が絶えずからみ合い、問題と説明がここかしこに混入されるといったやり方によって全体の仕事が片付けられているのです。これというのも、諸種の学問を樹立し叙述しようと企てた人々は、以前にはそのほとんど全部、現在でもなおその多数が、この方法は数学という学問にのみ特有であって、他のすべての学問においては排斥され軽蔑さるものだと判断しているからであります。この結果彼らは、自己の主張を何ら不可疑的理由で証明することをせず、ただ尤もらしい蓋然的な論拠で支持しようと努力するにすぎません。そんなわけで、何ら不動・確実なものの含まれていない、むしろ論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山が作り上げられているのです。そして或る人によって薄弱な論拠でどうにかこうにか基礎づけられた事柄は、たちまち他の人によって反駁され、また同じ程度の武器で破壊し粉砕されるのです。このような次第で、不変な真理に渇望する精神は、安全幸福な渡航のできる平穏な水路を発見して望ましい認識の港にたどりつこうともくろみながらも、事実は意見の大海に激しく動揺し、論争の嵐に四方から囲まれ、疑惑の巨浪に絶えず追われ引きずられて、そこからいつまでも逃れるあてのない有様なのです。(『デカルトの哲学原理』序文) 

« はじめに
定義と公理 »