総合的方法

『エチカ』は、定義、要請、公理、定理を連ねる、幾何学的な叙述形式を取っている。スピノザがこの叙述形式を採用したのは、総合的方法と相性がいいからだ。まずは、総合的方法について詳しく考察しよう。

デカルト

総合的方法は一対一の議論を想定し、相手からの同意の奪取を目的とする。詳細は、『省察』第二答弁に記述されている。

分析(Analysis)は、事物が方法的に、いわばア・プリオリに見いだされた真の道を示すものである。もしも読者がこの道を辿ろうとし、かつ全てに十分に注意しようとするならば、事物を完全に理解し、自分のものとするだろう。それは、自分自身で見つけ出した場合に劣るものではないだろう。しかし、注意深くない読者や、敵対的な読者を確信に向かわせることはできない。それは、この証明法の提示するもののうちに少しでも気づかれないものがあるなら、この結論の必然性は明らかではなくなるからであり、また、特に注意しなければならない多くのものに、十分に注意する者には明確であるという理由で、ほとんど触れないことがしばしばあるからである。総合(Synthesis)は逆に、反対の道、すなわち、ア・ポステリオリな問いにより、結論されたものを明晰に証明する。その際には、定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用する。それは、もしも帰結の一つが否定されれば、それが先行のうちに含まれていることをただちに示し、どれだけ敵対的な読者であっても、恒久的な同意を奪取するためである。しかし、分析のように満足させることはないし、学ぼうという欲求を持つ精神を満たすこともない。というのも、事物が発見された仕方を教えないからだ。

総合的方法は、分析的方法と対になっている。
自分が発見したことを伝える際、その発見に至る過程を一々たどって説明するのが分析的方法である。自分がどのような問題意識を持っていたか、どのような道筋で考えたかを、相手に追体験させる形で語るわけである。注意深く、相手から学ぼうという気のある者に対して教えるのであれば、このやり方が最善になる。だが、相手が注意深くない者であったり、こちらに対して敵対的な者であったりするとまずい。相手は、こちらの提示した文章を読み飛ばすかもしれないし、自明だと思って省略した事柄を把握していないかもしれないからだ。不注意、あるいはこちらに対する悪意によって。
一方、総合的方法は、相手からの同意の奪取を目的とする、「定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖を使用」した方法である。これは、「帰結の一つが否定されれば、それが先行のうちに含まれていることをただちに示」せる利点を持ち、どれだけこちらに敵対的な者であったとしても有効である。
『省察』は、自分の行った省察を追体験させる分析的方法で叙述されている。だが、これは見せかけだ。デカルトは、ありうる反論を事前に想定し、それに対する回答を用意した上で、それを適切な箇所に配置、分析的な論述になるようにしている。『省察』は、事前に周到な準備をした上で書かれた著作なのだ。そして、核心部分であるコギトの箇所については、同意の奪取を目的とし、相手を限定して、絶対に否定できない仕方で議論をした、という点で総合的方法を使っていると言える。

スピノザ

スピノザの著作においては、『デカルトの哲学原理』のマイエルの序文で、総合的方法について言及されている。『省察』第二答弁を踏まえたものになっており、内容は大差ない。

尤も、この比類ない著名な人物の哲学に関する諸著作は、なるほど数学における証明方法と秩序とに従っているものではありますが、しかしそれはユークリッドの幾何原本やその他の幾何学者たちの書に普通用いられた方法、即ち定義、要請及び公理をまず先におき、定理とその証明がそれにつづくという方法によって仕上げられているのではありません。デカルトの方法は、むしろこれと極めて異なったものでありまして、彼自らその方法を真実にして最善なる教授方法となし、これを「分析的方法」と名づけています。というのは、彼は「第二駁論への答弁」の終りのところで、不可疑的証明方法に二種類あることを認めております。一は分析的方法で、それは「対象を方法的に、そしていわばア・プリオリに発見する真の道を指し示す」ものであり、他は総合的方法で、それは「定義、要請、公理、定理及び問題の長い系列を用い、従ってそれは人がそのいずれかの結論を否認する場合、その結論が前提の中に含まれていることを直ちに示すことができ、このようにしてどんなに反抗的で強情な読者からも同意を奪取することができる」ものなのであります。

スピノザはデカルトと違い、実際に「定義、要請、公理、定理、および問題の長い連鎖」を使って叙述する。なぜ幾何学的形式かというと、相手の同意の奪取という点で非常に有利だからだ。以下、幾何学的形式の利点について見ていこう。

定義を使う利点

最初に定義の形で相手の言葉をまとめることで、相手が言葉の曖昧さを利用して、言い逃れをする余地を潰すことができる。
分析的方法であれば、相手は不利になったとき、「この言葉の用い方について、君と私との間にはズレがある。君がそのような意味でこの言葉を使っていたのだとしたら、私は君の主張に同意していない」と言って、それまでの議論をひっくり返す可能性がある。だが、総合的方法であれば、最初にまとめた定義を指し示しながら「最初から君が定義した言葉しか用いていないんだが、君は一体何を言っているんだ?」「議論の途中で気が変わって、君自身が使っていたこの言葉が気に食わなくなったとでも言うのかい?」「君の主張は支離滅裂だが、それならそれで私は構わないよ。では、これからは君が好きな言い方を用いようじゃないか。ほら、早く定義してみてくれ」と言い返すことができるわけだ。

定理を使う利点

定理を連ねる形で叙述することで、相手が議論を途中でひっくり返す余地を潰すことができる。
議論の途中で相手が不同意を示してきたなら、「君はどの定理について不同意だと言うのか」と尋ねればいいわけだ。相手が「この定理で不同意だ」と言ったなら、その定理の証明に用いた定理を指し示せばいいのである。それは、もちろん相手が同意済みのものだ。
さらに、ここで指し示した定理から、さらにその定理の証明に用いた定理へと遡ることもできる。そこで現れる定理もやはり、既に相手が同意済みのものだ。こうして遡っていくと、最終的には、相手の言葉である「定義」と、相手の認めている理論である「公理」に行き着くわけだ。

このように、相手からの同意の奪取を追求すれば、その叙述形式は幾何学的形式になるわけである。

デカルト、スピノザ以外の哲学

分析的方法と総合的方法の区別に到達していない哲学は、方法論において未熟で、学問の域に達していないものとして整理されることになる。デカルト以前の哲学は、「尤もらしい蓋然的な論拠」を持つものに過ぎず、「論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山」を生み出しただけだった。そして、薄弱な根拠で否定したものが、また別の薄弱な根拠で否定される、という無駄な事態を招いていた、と『デカルトの哲学原理』では書かれている1。このような状況だったからこそ、デカルトは明晰判明の規則を求めたわけだ。
だが、デカルト、スピノザが見つけ出した方法論が、哲学において根付くことはなかった。私には、現在においても「尤もらしい蓋然的な論拠」しかない「論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山」が築かれているように思える。


  1. しかし、事情はこうでありますものの、諸君の見られる通り、数学を除いては、ほとんどどんな学問も、この方法で処理されていないのです。これと天地の相違のある他の方法、即ち、定義と分類が絶えずからみ合い、問題と説明がここかしこに混入されるといったやり方によって全体の仕事が片付けられているのです。これというのも、諸種の学問を樹立し叙述しようと企てた人々は、以前にはそのほとんど全部、現在でもなおその多数が、この方法は数学という学問にのみ特有であって、他のすべての学問においては排斥され軽蔑さるものだと判断しているからであります。この結果彼らは、自己の主張を何ら不可疑的理由で証明することをせず、ただ尤もらしい蓋然的な論拠で支持しようと努力するにすぎません。そんなわけで、何ら不動・確実なものの含まれていない、むしろ論争と意見の相違とに満ちみちている莫大な書籍の雑然たる山が作り上げられているのです。そして或る人によって薄弱な論拠でどうにかこうにか基礎づけられた事柄は、たちまち他の人によって反駁され、また同じ程度の武器で破壊し粉砕されるのです。このような次第で、不変な真理に渇望する精神は、安全幸福な渡航のできる平穏な水路を発見して望ましい認識の港にたどりつこうともくろみながらも、事実は意見の大海に激しく動揺し、論争の嵐に四方から囲まれ、疑惑の巨浪に絶えず追われ引きずられて、そこからいつまでも逃れるあてのない有様なのです。(『デカルトの哲学原理』序文) 

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