デカルトに借りた言葉と理論

では、『エチカ』で使われている言葉と理論が、デカルトをもとにしていることを見ていこう。

定義

定義は八つあるが、第一部で重要なのは、実体と様態だ。

実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(定義三)

様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義五)

デカルトは、これらの言葉を次のように定義している。

「実体」とは他でもない、存在するために他の何ものをも要しないように、存在するものを意味する。(『哲学原理』第一部51節)

しかし、実体がそれらによって変状、あるいは変様していると考えるとき、我々はそれを様態と呼ぶ。(『哲学原理』第一部56節)

このように、スピノザはデカルトと同じ意味で、それぞれの言葉を定義している。

神の存在証明

デカルトから借りてきた理論で、一番重要なのは神の存在証明である。
『エチカ』における神の存在証明は、以下のようになっている。

神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。
証明 これを否定する者は、もしできるなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理七により)その本質は存在を含まない。ところがこれは(定理七により)不条理である。ゆえに神は必然的に存在する。Q・E・D・(定理一一)

この証明は、デカルトがア・プリオリな証明で行ったものと同じである。それは、以下の内容だった。

確かに私は、神の観念を、すなわち最も完全な存在者の観念を、どんな形の観念、あるいはどんな数の観念にも劣らず、私のうちに発見するのである。さらに私は、つねに存在するということが神の本性に属することを、あるいは形もしくは数について私の論証することが、その形もしくはその数の本性に属することを理解する場合に劣らず、明晰にかつ判明に理解するのである。(第五省察)

『エチカ』の対象は、既に神の存在証明について把握しているデカルト主義者である。このため、スピノザは神の存在証明をシンプルに済ませることができる。既に神の存在証明を了解している者に対して、証明を一から行う必要も、言葉を費やす必要もない。デカルトが語った内容をそのまま語れば、それで十分なのだ。
スピノザによる神の存在証明が、デカルトから借りてきたものであることは、備考の叙述からも確認できる1 2 3。そこでは、神の存在は明確であるのに、人間が普段接するのが個々の様態であるため混同が起こり、それに気づくことができない、という内容が語られている。デカルトが『省察』で言っていたことと同じなのだ。


  1. 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないすべての人々にとって、定理七の証明を理解することは疑いもなく困難であろう。なぜなら彼らは実体の様態的変状と実体自身とを区別せず、また事物がいかにして生ずるかを知らないからである。この結果として彼らは、自然の事物に始めがあるのを見て実体にも始めがあると思うようになっているのである。(定理八備考二) 

  2. しかし多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解しえないであろう。それというのも彼らは外的諸原因から生ずる物のみを観想することに慣れているからである。(…)ただここでは外的諸原因から生ずる物について語っているのではなく、どんな外的原因からも産出されえない実体(定理六により)についてのみ語っているのであることを注意するだけで十分である。(定理一一備考) 

  3. こんなことになる原因は、私の見るところでは、彼らが哲学的思索の順序を守らなかったことにあるのである。なぜなら、神の本性は認識上から言っても本性上から言っても最初のものであるから何ものよりも先に観想されなければならなかったのに、彼らはこれを認識の秩序の上で最後のものと信じ、そして感覚の対象と呼ばれる物をすべてのものに先立っていると信じたからである。この結果として彼らは、自然物を観想するに際しては神の本性については少しも思考せず、またあとで、神の本性の観想に心を向けた時には、彼らが初め自然物の認識を築くに際して根底としたもろもろの勝手な想像については少しも思考しえなくなったのである。(第二部定理一〇備考) 

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