定義と公理

では、『エチカ』で使われている言葉と理論が、デカルトをもとにしていることを見ていこう。

定義

実体と様態

神のア・プリオリな証明で見たように、実体と様態はデカルトに由来する言葉である。これらの言葉について、デカルトは以下のように定義している。

「実体」とは他でもない、存在するために他の何ものをも要しないように、存在するものを意味する。(『哲学原理』第一部51節)

しかし、実体がそれらによって変状、あるいは変様していると考えるとき、我々はそれを様態と呼ぶ。(『哲学原理』第一部56節)

スピノザによる実体と様態の定義は以下の通りである。デカルトを踏襲していることがわかるはずだ。

実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。(定義三)

様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。(定義五)

属性

属性(attributum)という言葉もデカルトに由来するものである。この言葉も、実体の認識過程を理解していれば、理解できるものである。
我々が普段囲まれ、意識しているのは個々の様態である。ここから実体の認識に至るのは、個々の様態が持つ、共通性質を認識することによってである。
自分の部屋にいて、あたりを見渡している状況を想定してみよう。そこでは、椅子、机、時計、本といったものが意識されるだろう。これらはどれも、物体に属するものだと考えるはずだ。なぜなら、これらには、延長、形、運動といった、精神とは異なる性質が備わっているからである。それらはどれも空間内にあり、特定の形を有し、運動をするものである。このような共通性質を見て、物体的実体を認識するわけだ。
次に、椅子に座ってぼんやりと考えている状況を想定しよう。今朝食べたもの、以前読んだ本の内容、友人の顔といったものが頭に浮かんでくるだろう。これらはどれも、精神に属するものだと考えるはずだ。なぜなら、これらはどれも物体とは異なる性質を持つからである。ある観念が空間的な場所を占めることも、形を有することも、運動することもない。ここから、物体的実体とは異なる実体、すなわち精神的実体を認識するわけだ1
このように、様態には共通性質が備わっており、それによって「これは物体に属する」「これは精神に属する」と区分することができる2。この共通性質を、デカルトは属性と呼ぶ3

この属性には、主要なものがある。それが延長と思考だ。例えば、形や運動のない物体的実体を考えることは、可能かもしれない。だが、延長のない物体的実体については、考えることができないだろう。延長は物体的実体の本質を構成しており、切り離すことができないのである。
これは精神についても同様である。個々の観念や意志は、一つの思考の内にあるものとして現れる。この思考は、精神的実体の本質を構成するものであり、そこから切り離すことができないわけだ4

スピノザは、デカルトによる属性の定義を引き継いでいる。

属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。(定義四)

基本的に、『エチカ』で属性という言葉が使われる場合、延長と思考という二つの主要な属性を指すと考えていい。ただ、定理九のように、より広い意味での属性を指す箇所も存在するので注意が必要だ。

神の定義も、デカルトから引き継いだものである。デカルトは、自身の不完全性を意識したあと、我と異なり、かつ我よりも完全なる実体を意識した。デカルトは、それを神と定義する。

われわれが最高に完全であると理解し、そして、そのうちに何らかの欠陥ないし完全性の制限を含むものが全く把握されない実体は、神と呼ばれる。(省察第二答弁「幾何学的な様式で配列された諸根拠」定義八)

スピノザは、デカルトを踏襲し、神を以下のように定義する5

神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。(定義六)

公理

どの公理も、デカルトがその理論において用いているものである。特に理解が難しいものはないはずだ。
このなかには、デカルトが新たに公理として提示したものがいくつかある。これについてのみ、簡単におさえておこう。

真の観念

デカルトに帰される公理の一つが、真に関する公理だ。デカルトは方法的懐疑により、明晰判明の規則を第一原理の座に置くことができた。明晰判明の規則を公理としたものが、公理6である。

真の観念はその対象と一致しなければならぬ。(公理6)

因果律

明晰判明の規則によって真偽の基準を手にしたデカルトは、因果律についても公理として認めることになる。デカルトは、因果律を観念についても認めており、観念にはその原因がなければならないという公理を、因果律一般の公理とは別に置いている。

それがなぜ存在するかの原因が、どういうものであるかをたずねることができないようなものは、何も存在しない。なぜなら、このことは神そのものについてたずねることができるが、それは、神が存在するためには何らかの原因が必要であるということではなく、むしろ神の本性の広大さそのものが、神が存在するためにはどんな原因も必要としないことの、原因あるいは根拠だからである。(「諸根拠」公理一)

またここから、われわれの観念の表現的実在性は、それと同じ実在性が、そこでは単に表象的にではなく、形相的(formaliter)にあるいは優越的(eminenter)に、含まれている原因を要求する、ということが帰結する。(「諸根拠」公理五)

スピノザもデカルトを踏襲し、因果律に関しては一般的なものと、観念に関するものの二つの公理を置いている。

与えられた一定の原因から必然的にある結果が生ずる。これに反してなんら一定の原因が与えられなければ結果の生ずることは不可能である。(公理三)

結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。(公理四)

このように、デカルトを理解していれば、『エチカ』の定義と公理を理解することは容易である。


  1. とは言え、実体が存在するものだということだけでは、我々を触発しないから、それだけで実体が最初から知られるわけではない。そうではなくして、無にはいかなる属性や性質や質もないという、かの公理によって、我々は実体をば、その何らかの属性から容易に認識するのである。(『哲学原理』第一部52節) 

  2. 知、意欲および一切の知的ならびに意志的様態は思考実体に属し、延長実体には大きさ、即ち長さと幅と深さある延長・形・運動・位置・諸部分の可分性等が属する。(『哲学原理』第一部48節) 

  3. かようにして我々は、もしも思考のあらゆる属性を、延長の諸属性からはっきり区別するならば、一つは被造思考実体について他は延長的実体についての、二つの明晰判明な概念、もしくは観念を容易に有つことができる。(『哲学原理』第一部54節) 

  4. なるほど実体は、どの属性からも認識されるのであるが、しかしおのおのの実体には一つの主なる性質があって、これがその実体の本性および本質を構成し、他のすべての属性はこれに帰着せしめられるようになっている。即ち、長さ幅および深さある延長は、物体的実体の本性を構成し、思考は思考実体の本性を構成する。というのは、物体に認められる他の一切のものは延長を前提にし、延長しているものの或る様態であるにすぎないし、同様に、精神のうちに見出される一切のことは、さまざまな思考の様態にすぎないからである。(『哲学原理』第一部53節) 

  5. この定義が迂遠に見えるとしたら、それは絶対的という語を使っているからだろう。この言葉は、思考属性あるいは延長属性の持つ無限性との対比のために使われている。思考属性も延長属性も、無限の広がりを持つものだが、それ自身に含まれないものがあるという点では、相対的なものでしかない。いくら延長が無限の広がりがあるといっても、それとは別に思考属性という、別の無限の広がりを持つものがあるじゃないか、ならばその無限は絶対的なものではなく、相対的なものに過ぎないのではないか、ただ自己の類において(in suo genere)無限であるに過ぎない、というわけである。一方、神はこの両者を含むものとされている。よって、その無限は絶対的なものだと言えるわけだ。 

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