神の定義の妥当性(定理九~一〇)

定理九~一〇は、スピノザの神の定義が妥当であることを示すための箇所である。

実在性について

およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられる。(定理九)

この定理は、デカルトが主張していたことと同じである。

即ち、無にはいかなる変状もしくは性質もないということ、従って我々が何らかの性質を認める場合は、いつでもそれを[性質として]有つ物、即ち実体が必然的に見出され、さらにその同じ物即ち実体のうちに、多くの性質を認めれば認めるほど、我々はいっそう明白に、その物を認識するのだということである。(『哲学原理』第一部11節)

我々が普段囲まれ、意識しているのは、犬、猫、人間、植物、椅子、机といった諸様態である。諸様態のみを認識している間は、実体は曖昧で、ほとんど実在性を持たないものと意識されるわけだ。懐疑論者がそうだったように。
だがあるとき、何かをきっかけにして、それらがある属性を持つことに気づくことになる。「これらは延長という共通性質を持っている」というように。また別のあるときには、それらがまた別の属性を持つことに気づくだろう。「これらは運動という共通性質を持っている」というように。こうしたことを積み重ね、多くの属性を認識することで、意識は次第に諸様態を離れ、実体に向かうわけである。そうして、曖昧だった実体の観念は明晰判明なものになり、かつて疑っていた実体の実在性は、何よりも確実なものとして意識されることになるわけである。

属性はそれ自身によって考えられる

次に、定理一〇について考察してみよう。

実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。(定理一〇)

これもデカルトが主張していたことである。延長属性も思考属性もそれ自体で完結したものであり、相互に関係することはないのだ。

神の定義の一致

この二つの定理をあわせると、それ自身で考えられる多くの属性から成り立つ実体という、スピノザによる神の定義が妥当性を持つことになるわけである。

神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。(定義六)

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