偶然性の否定(定理一七~三三)
民衆は、事物のうちには偶然性があり、神がそこに介入する余地があると考える。スピノザは、それを否定するため、民衆の主張を一つ一つ取り上げて批判する。
その際にベースとなるのが、定理一六以前の内容だ。ここまでの考察を理解し、神の本性について理解していれば、民衆の主張が取るに足りないことなど明白だろう、というわけである。
神を外部あるいは内部から駆るもの(定理一七)
神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。(定理一七)
まずスピノザが取り上げるのが、神を外部あるいは内部から駆って働かせるような原因がある、という主張だ。例えば、神が善の実現のために動くのであれば、それは善という外的原因に駆られたということであり、神が内なる怒りによって動くのであれば、それは怒りという内的原因に駆られたということになるわけである。
これ以前の内容を把握していれば、これがありえないことは明白である、という証明がなされる。
精神・物体と神の関係(定理一八~二〇)
神あるいは神のすべての属性は永遠である。(定理一九)
思考と延長は、神によってつくられた神とは別個のものであり、よって偶然的である、という主張が次に取り上げられる。
既に明らかにされたように、思考も延長も神と別個のものではなく、神の本質をなすものである。よって、神の永遠性を認める以上、これら属性の永遠性も認めなければならない、という証明がなされる。
永遠の真理(定理二一~二三)
神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。(定理二一)
神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。(定理二二)
神であれば、自然法則のような、我々が永遠の真理だと認めるものについても、無に帰すことができるのではないか、という主張がここでは取り上げられる。
ここで永遠の真理とされるものは、属性と密接に結びついたものであり、よってそのようなことはありえない、という証明がなされる。
個物の偶然性(定理二四~二九)
あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのではなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。(定理二八)
個物は神が創造した偶然的なものであり、よって神はそれに介入できる、という主張がここでは取り上げられる。
個物は様態であり、それがどのようにして動くかは、必然的な秩序および連結によって決定している。よって、ここに偶然の余地などない、という証明がなされる。
他の世界の可能性(定理三〇~三三)
物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。(定理三三)
神はその知性のうちに無数の世界を持っている。神は、そのうちの一つを自身の意志によって選び、現実世界をつくりだした。よって現実世界は偶然的であり、他の秩序および連結の世界もあり得る、という主張がここでは取り上げられる。
我々が認識できるのは現実世界のみであり、これは自身の知性をどこまで拡大させようと同じだ。また、意志も知性もただの様態に過ぎない。たとえ神が知性と意志を持つとしても、それによって現実とは異なる世界が生じることはない、という証明がなされる。