人間身体の本性
次にスピノザは、人間身体について考察する。まずは、個物の定義について見ていこう。
個物の定義
我々は、自身の身体、他者、机、椅子と言ったように、様々な個物を認識している。スピノザは個物を、物体が複合したものとして定義する。
同じあるいは異なった大いさのいくつかの物体が、他の諸物体から圧力を受けて、相互に接合するようにされている時、あるいは(これはそれらいくつかの物体が同じあるいは異なった速度で運動する場合である)自己の運動をある一定の割合で相互に伝達するようにされている時、我々はそれらの物体がたがいに合一していると言い、またすべてが一緒になって一物体あるいは一個体を組織していると言う。そしてこの物体あるいは個体は、構成諸物体のこうした合一によって他の諸物体と区別される。(定義)
物体全体の秩序および連結は定まっており、そこに例外はない。ある物体の運動および静止は、別の物体をその原因とし、その原因の運動および静止もまた別の物体を原因とする。そしてその連鎖は永遠に続く。
ここにおいて、個物を個物たらしめる絶対的な基準は存在しない。例えば人間身体について考えてみよう。人間身体をどこまで腑分けしようと、物体全体の秩序および連結に従わないものは見出せないわけだ。さらに、人間身体の構成物は時々刻々と入れ替わる。ここにおいて、ある個人を個人たらしめる絶対的な基準は存在しないのである。
では、個物とは何だろうか。それは、「相互間の運動および静止の割合」が一定で、「ある方向に対して有する運動」を持つものだというのがスピノザの答えだ。それが物体によって構成されていること、物体全体の秩序および連結に従うことは変わらないし、その構成物も変化し続ける。だが、とにかくそこには一定のまとまりと一つの運動を有するように見えるもの、すなわち個物として見えるものがある。「そのように見える」ことが全てであり、他に個物の基準などないことになるのだ。
個物の範囲
スピノザは、個物を「そう見えるもの」として定義した。これにより、ある個物が同一の個物でありつづける基準は非常に緩いものとなる。個物に見えればそれは個物なのだから、その一部が入れ替わろうと1、大きさが変わろうと2、関係がないわけだ。さらに言えば、それを個々の人間や物に限定する必然性もない。家族でも、民族でも、国家でも、個物としていいことになる。これをさらに進めると、自然全体、すなわち神も一つの個物だと言えるわけである3。
人間身体の本性
もちろん、人間身体もこの個物の一つである。その人間身体の本性として、スピノザがあげているものが以下だ。これに従い、観念の説明がなされることになる。
一 人間身体は、本性を異にするきわめて多くの個体――そのおのおのがまたきわめて複雑な組織の――から組織されている。
二 人間身体を組織する個体のうち、あるものは流動的であり、あるものは軟かく、最後にあるものは硬い。
三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。
四 人間身体は自らを維持するためにきわめて多くの他の物体を要し、これらの物体からいわば絶えず更生される。
五 人間身体の流動的な部分が他の軟かい部分にしばしば突き当たるように外部の物体から決定されるならば、その流動的な部分は軟かい部分の表面を変化させ、そして突き当たる運動の源である外部の物体の痕跡のごときものをその軟かい部分に刻印する。
六 人間身体は外部の物体をきわめて多くの仕方で動かし、かつこれにきわめて多くの仕方で影響することができる。(要請)
-
もし多くの物体から組織されている物体あるいは個体から、いくつかの物体が分離して、同時に、同一本性を有する同数量の他の物体がそれに代るならば、その個体は何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。(補助定理四) ↩
-
もし個体を組織する各部分が、すべてその相互間の運動および静止の割合を以前のままに保つような関係において、より大きくあるいはより小さくなるならば、その個体もまた何ら形相を変ずることなく以前のままの本性を保持するであろう。(補助定理五) ↩
-
もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら、我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先へ進むなら、我々は、全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限に多くの仕方で変化することを容易に理解するであろう。(補助定理七備考) ↩