観念の分析
定理七を踏まえた上で、観念と人間精神が、単純な物理法則と人間身体の特性によって説明されることになる。
観念の本質
我々の身体は、複雑な多数の部分によって構成されており、それぞれが外部の物体と接触することで変状する。その結果生じるのが、個々の観念だ。例えば今散歩をしていて、周囲の景色なり、喧騒なり、食べ物の匂いなりの観念を持っているとしよう。これらは、外部の物体が人間身体を変状させた結果生じたものだといえるわけである。
人間身体の本性と外部の物体の本性
観念は、人間身体が外部の物体と接触し、変状することで生じる。それゆえこれは、人間身体の本性と、外部の物体の本性をともに含むことになる1。
例えば今、太陽の観念を持っているとしよう。この観念は、外部の物体としての太陽の本性と同時に、人間身体の本性を含んでいる。それは、冬には弱々しい、与える熱も大した事のないもののように映るが、夏には荒々しい、強力な熱を与えるものとして映るだろう。また、身体が冷えているときには快いものとして映るが、そうでないときは不快なものとして映るだろう。同じものが違った仕方で現れるのは、それがその対象の本性とともに、人間身体の本性を含んでいることが理由なのだ。
存在しない観念
人間身体が外部の物体と接触し、変状することで観念が生じるということは、外部の物体が現前しなくても、それがあたかも目の前にあるかのように意識することがあるということである。
例えば目の前を犬が横切ったなら、人間身体が変状し、犬の観念が形成される。この変状は、犬以上に興味を引くものが現れない限り持続し、犬の観念を想起し続けることになる。だがやがて、通りすがりの知り合いに声をかけられる、強い風に吹き付けられる、といったより強力な刺激によって、犬の観念は排除され、また別の観念を想起することになるのである2 3。
記憶
記憶も同様に、物理的に説明することができる。記憶とは、人間身体に刻まれた、外部の物体の痕跡である。例えば、「りんご」という言葉とともに、ある果実を目にする経験を何度も繰り返したとしよう。すると、この両者の結びつきは身体に刻まれることになる。そうして、後に「りんご」という言葉を聞くと、人間身体が過去にその果実を見た際と同じように変状し、その果実を想起することになるのだ4。
ここでのポイントは、それが「人間身体の変状の秩序および連結に相応して生ずる」ものであり、外的物体の連結そのものを示すものではない、ということだ。例えば、「りんご」という言葉を聞いて果実を想起するのは、「りんご」という言葉とともにその果実を目にする経験を何度も繰り返し、それが身体に刻まれているからである。だが、何を同時に経験するか、何が記憶として身体に刻まれるかは、各人で異なるわけだ。このため、同じものを見て各人が別のことを想起することがあるのである。
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人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。(定理一六) ↩
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もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。(定理一七) ↩
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人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。(定理一七系) ↩
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もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。(定理一八) ↩