普遍概念
次に、普遍概念(notiones universales)について考えてみよう。これは、個々の観念を同時に想起した結果、生じるものである。
例えば「○○さん」という知り合いがいるとしよう。「○○さん」という言葉を聞くと、これまでの経験によって「○○さん」と結び付けられた観念、例えば出会った時の情景なり、人づてに聞いた情報なりが、すべて同時に想起されることになる。これが「○○さん」の普遍概念だ。このとき、それぞれの観念で相違するもの、例えば着ている服、出会った時の状況、髪型、といったものは曖昧に、体格、性格、好き嫌い、仕草といった、どの観念にも共通するもの、すなわち「○○さん」の本質は明晰に意識されるわけだ。
この原理は、「人間」「馬」「犬」といった普遍概念1についても同様である。我々は、「人間」という言葉を聞くことで、これまでに会った人間をすべて同時に想起する。だが、それらすべてを明晰判明に想起することはできない。これまでに会った人間の数が膨大であり、それらを明晰判明に想起することは、人間身体の限界を超えているからだ。そうして、髪型、体の大きさといった相違点については曖昧に、共通点のみが明晰に意識されることになるのである。
「有」「物」「ある物」といった超越的名辞(termini transcendentales)2は、さらに膨大な数の表象を同時に想起することで生じる。例えば「有」という言葉とともに想起されるものは、「人間」といった普遍概念で想起されるものよりも、さらに膨大になる。そしてここで意識されるものは、より曖昧で混乱したものになるわけである。
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すなわちそれは人間身体の中で同時に形成される表象像、例えば「人間」の表象像の数が表象力を徹底的には超過しないがある程度には超過する場合、つまり精神がその個々の人間の些細な相違(例えばおのおのの人間の色、大いさなど)ならびにそれらの人間の定数をもはや表象することができずただそれらの人間全体の一致点――身体がそれらの人間から刺激される限りにおいて生ずる一致点――のみを判然と表象しうる(なぜならその点において身体は最も多くそれら個々の人間から刺激されたのだから)ような場合である。そしてこの場合、精神はこの一致点を人間なる名前で表現し、これを無数に多くの個人に賦与するのである。(定理四〇備考一) ↩
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これらの名辞は、人間身体は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像(表象像が何であるかはこの部の定理一七の備考の中で説明した)しか同時に判然と形成することができないということから生ずる。もしこの数が超過されれば表象像は混乱し始めるであろう。そしてもし身体が自らのうちに同時に明瞭に形成しうる表象像のこの数が非常に超過されればすべての表象像は相互にまったく混乱するであろう。(定理四〇備考一) ↩