観念の秩序および連結
第二部には、「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である」という重要な定理があるが、これはデカルトの観念についての理論を前提としている。まずは、デカルトの理論を概観してみよう。
デカルト
物体
デカルトが最初に見出すのは、我の任意になる観念である。デカルトは、方法的懐疑の過程を経て、我が精神的実体であること、ありとあらゆるものの観念を自由に思い浮かべられることを見出した。これらの観念は、私の意志に依存する、我を原因として生じた観念だということができる。
だが、続いてデカルトは、我の任意にならない観念(表現的実在性を持つ観念)があることに気づく1。例えば我々は、暖炉に近づけば火の熱を感じるし、太陽を見れば太陽の観念を持つ。これらは、我の意志とは無関係に生じるわけだ。デカルトは、これらの観念の原因は物体かもしれないと考えるが、「もしかしたら私には、これらの観念を生み出す隠れた力があるかもしれない」「神が我を欺いて、これらの観念があるかのように思い込ませているだけかもしれない」と疑い、一旦は否定する。だが後に、我と神の本性についての十分な考察を経ると、この疑いを捨て去り2、物体が観念の原因であることを認めることになる3。
暖炉から熱を感じるとしたら、それは暖炉の火が燃えているからであり、太陽の観念を持つとすれば、それは太陽が存在するからである。もちろん、物体のすべてが、我々が感覚する通りには存在していないかもしれない。だが、物体が存在すること自体は確かなのだ。表現的実在性を持つ観念は、物体が存在し、それが私の身体に作用して形成されたものである。それは、自然全体の秩序及び連結に従って生じるものであり、我の任意にはならないのだ。
因果律
ちなみに、「表現的実在性を持つ観念があることを認めたとしても、別にその原因を認めなくてもいいのではないか」「原因がない観念があったって別にいいじゃないか」と言うことはできない。なぜなら、それが因果律の公理に反するからである4 5 6。よって、表現的実在性を持つ観念の原因は、必ず存在しないといけないのである。
デカルトの持つ二種の観念
以上から、デカルトは二種類の観念を認めていることがわかる。
一つが、我の任意になる観念である。これは、我を原因として生じたものであり、その秩序および連結は我次第となる。
もうひとつが、我の任意にならない観念である。これは、物体を原因として生じたものであり、その秩序および連結は、自然全体の秩序および連結に従うことになる。
スピノザ
デカルトの脆弱性
ではここで、第一部の内容を思い出してみよう。
第一部では、すべての観念が必然的な秩序および連結に従うことが証明された。すなわち、我の任意になる観念など存在しないことが、既に証明されているのである。デカルトがいうように、観念には、任意になるものとならないものの二種類があるのではない。すべての観念は、任意にならないものなのである。そしてこれは、すべての観念が、自然全体の秩序および連結に従って生じることを意味する。デカルトの理論を踏まえれば、第一部からは以上のことが導かれるわけだ。
スピノザの方法
スピノザは、任意になる観念が存在しないことをあらかじめ確認したうえで7、デカルトに対して次のように言う。「君は、任意にならない観念が物体を原因とすることを、因果律の公理に基づき第六省察で証明していただろう」「それと同じ証明を、あらためて今ここで行ってみたまえ」と。こうして、観念の秩序および連結が、物の秩序および連結と同一であることが証明されるわけだ8。
「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である」という定理の意味は、我々の持つ観念が、自然全体の秩序および連結により一意的に決まるということである9。デカルトは、観念には物体に規定されるものがあることを認めながらも、それに規定されない観念の存在を、なんとか認めようとしていた。スピノザは、それを総合的方法で否定したのだ。
その上で、『エチカ』の読者が、今の段階でこの定理を素直に受け入れることは難しいはずだ。「君が自分の意志で何かを考えていると思ったとしても、それは気の所為だ」「君がどのような観念を持つかは、物体の秩序および連結によって一意的に決まっている」と言われても、反論はできないが納得もできない、というのが本心ではないだろうか。
だが、それは当然である。というのは、この段階ではまだ、観念の本質についての考察がなされていないからである。この考察が第二部の主題であり、これ以降の定理でなされることになる。
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さらにまた、それらの観念は、私の意志にも、したがって私自身にも依存しないことを経験しているからである。実際それらは、しばしば私の意に反してさえ現れるからである。たとえばいま私は、それを欲するにせよ欲しないにせよ熱を感じる。そこで、その感覚つまり熱の観念が、私とは異なる事物から、すなわちそのそばに私が座っている火の熱から、私にやって来ると思うのである。(第三省察) ↩
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しかしいまや、私自身と私の起源の作者とをよりよく知り始めるに及んで、私は、感覚から得ると思われるもののすべてを軽々しく認めるべきではもちろんないが、しかしまた、そのすべてを懐疑に付すべきでもないと考える。(第六省察) ↩
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したがって、物体的実体は存在する。しかしおそらくは、物体的事物のすべてが、私が感覚しているとおりに存在しているのではない。それら感覚による把握は多くの場合、きわめて不明瞭で混乱しているからである。しかし、少なくとも私が明晰判明に理解しているすべてが、すなわち一般的に見れば、純粋数学の対象として把握されるすべてが、そこにおいてあるのである。(第六省察) ↩
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つまり、たとえば以前にはなかったある石がいま存在しはじめるためには、その石のなかに置かれるすべてを、あるいは形相的あるいは優越的に自分のうちにもつ、あるものによって生み出されるのでなければ不可能である。また、以前には熱くなかった主体に熱が導入されるためには、少なくとも熱と同じ程度の完全性をもつものによるのでなければ不可能である。(第三省察) ↩
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もし私のもつ観念のうちで、あるものの表現的実在性がたいへん大きく、その実在性が形相的にも優越的にも私のうちになく、したがって私自身がその観念の原因ではありえないことが確かであるほどなら、その観念の原因となる何か他の事物もまた存在するということである。(第三省察) ↩
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4 何らかのもののうちにある実在性すなわち完全性はすべて、そのものの最初の十全な原因のうちに形相的にあるいは優越的にある。
5 またここから、われわれの観念の表現的実在性は、それと同じ実在性か、そこでは単に表象的にではなく、形相的にあるいは優越的に、含まれている原因を要求する、ということが帰結する。そして注目すべきことは、この公理は必ず認められなければならないが、それは、ただこの一つのことにすべてのものの認識が、感覚的なものにせよ非感覚的なものにせよ、依存しているほどであることである。(諸根拠公理) ↩ -
定理七は第一部公理四、すなわち因果律の公理に基づいて証明される。「第一部公理四から明白である。なぜなら、結果として生ぜられたおのおのの物の観念は、そうした結果を生じた原因の認識に依存するからである。(定理七証明)」 ↩
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通常、定理七は並行論を意味するものとして解釈される。私は、この解釈は誤りであるという立場を取る。詳しくは第二部補論 - 並行論についてを参照のこと ↩