観念の秩序および連結
スピノザはまず、観念が物体の秩序および連結に応じて生じることを証明する。ここでも、デカルト主義者に対して総合的方法を使う、という形の議論がなされている。まずは、デカルトの理論を概観しよう。
デカルト
デカルトは、我を原因とする観念以外に、物体を原因とする観念があるとする。例えば我々は、暖炉に近づけば火の熱を感じるし、太陽を見れば太陽の観念を持つ。これらの観念の原因は物体であって、我ではない1。暖炉の熱を感じるのは、暖炉が燃えているからであり、太陽が見えるのは、太陽が存在するからである。もちろん、それらは我々が感覚する通りには存在しないかもしれない。だが、物体が存在すること自体は、確かなのである2。
デカルトは、これを因果律の公理に基づいて証明する3。観念には、必ずその原因がなくてはならない。何の原因もないのに、観念だけがある事態はありえないのである。だから、我を原因としない観念があれば、それが物体を原因とすることを認めなければならないのである。
スピノザ
このように、デカルトは二種類の観念を認めている。一つが我を原因とする観念であり、もう一つが物体を原因とする観念である。物体を原因とする観念は、自然全体の秩序および連結に応じて生じるものであり、当然ここに我の意志が介在する余地はない。今、外にいて、太陽なり、山なり、川なりを眺めているとしよう。これらの観念は、自然全体を原因として生じているものであり、我の意志によってどうにかなるものではないのだ。
これを踏まえた上でスピノザは、我を原因とする観念がないことを証明するわけである。するとどうなるか。すべての観念が、物体の秩序および連結に応じて生じたものであることになるわけだ。
スピノザの証明
そして、我を原因とする観念が存在しないことは、既に証明済みである。
第一部では、個々の観念が我の自由にはならず、必然的な秩序及び連結に従うものであることが証明された。観念は無限に無限の仕方で生じるものであり、そこには必然的な秩序および連結が存在する。それは、我がその内に含むようなものではないし、我が任意にできるようなものでもないのだ。それに、そもそも神は思考属性を持つものとして定義されている。したがって、神を定義した時点で、我が観念をその内に含んでいないこと、観念を任意にできないことを認めているともいえる。
スピノザは、これを「神は考えるものである(Deus est res cogitans)」という言葉で表現する。デカルトは、すべての観念が我の内にあることと、我なしに観念が存在しないことをもって、「我は考えるものである」と主張していた。ならば、すべての観念が神の内にあり、かつ神なしには観念が存在しないことが明らかになった今、「神は考えるものである」と表現する方が適切だろう、というわけだ4。
こうして、我を原因とする観念がないことについて一致した上で、スピノザは次のようにいう。「今見たように、我を原因とする観念など存在しない。すべての観念は、我以外を原因とするものなのである」「ところで君は、我を原因としない観念が、物体を原因としていることを、デカルトが因果律の公理に基づいて証明したことを覚えているだろう」「この公理による証明を、もう一度やってみてくれないか」と5。こうして、すべての観念が、物体の秩序および連結に応じて生じたものであることを証明するのである6 7。
まとめ
その上で、『エチカ』の読者が、今の段階でこの定理を素直に受け入れることは難しいはずだ。「君が自分の意志で何かを考えていると思ったとしても、それは気の所為だ」「君がどのような観念を持つかは、物体の秩序および連結によって一意的に決まっている」と言われても、反論はできないが納得もできない、というのが本心ではないだろうか。
だが、それは当然である。というのは、この段階ではまだ、観念の本質についての考察がなされていないからである。この考察が第二部の主題であり、これ以降の定理でなされることになる。
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この観念を、表現的実在性(realitas objectiva)を持つ観念と呼ぶ。デカルトは第三省察で、表現的実在性を持つ観念について語っている。「さらにまた、それらの観念は、私の意志にも、したがって私自身にも依存しないことを経験しているからである。実際それらは、しばしば私の意に反してさえ現れるからである。たとえばいま私は、それを欲するにせよ欲しないにせよ熱を感じる。そこで、その感覚つまり熱の観念が、私とは異なる事物から、すなわちそのそばに私が座っている火の熱から、私にやって来ると思うのである。」 ↩
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この結論に至る過程は紆余曲折している。第三省察の時点で、物体を表現的実在性を持つ観念の原因として取り上げるが、「もしかしたら私には、これらの観念を生み出す隠れた力があるかもしれない」「神が我を欺いて、これらの観念があるかのように思い込ませているだけかもしれない」と疑い、一旦は否定する。だが後に、我と神の本性についての十分な考察を経ると、この疑いを捨て去ることになる。そうして、第六省察で、物体を表現的実在性を持つ観念の原因として認めることになる。「しかしいまや、私自身と私の起源の作者とをよりよく知り始めるに及んで、私は、感覚から得ると思われるもののすべてを軽々しく認めるべきではもちろんないが、しかしまた、そのすべてを懐疑に付すべきでもないと考える。(第六省察)」「したがって、物体的実体は存在する。しかしおそらくは、物体的事物のすべてが、私が感覚しているとおりに存在しているのではない。それら感覚による把握は多くの場合、きわめて不明瞭で混乱しているからである。しかし、少なくとも私が明晰判明に理解しているすべてが、すなわち一般的に見れば、純粋数学の対象として把握されるすべてが、そこにおいてあるのである。(第六省察)」 ↩
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デカルトは、第三省察で因果律を公理として認めている。「ところでいま、作用因と全体因のうちには、少なくとも、この原因の結果のうちにあると同等のものがなくてはならぬということは、自然の光によって明白である。(第三省察)」また、この因果律は観念にも適用されるとしている。「しかもこのことは、現実的すなわち形相的実在性を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても、明らかに真なのである。(第三省察)」 ↩
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スピノザは、第二部において「神は考えるものである」とそれに類する表現、たとえば「神の観念(定理八)」「神のうちにその認識がある(定理九)」「人間精神は神の無限な知性の一部である(定理一一系)」といった表現を多用する。これは、我は自由に考えることができると思いこんでいるデカルト主義者に対して、それが不正確であることを示すためである。スピノザが人格神を信じているからではないことに注意してほしい。 ↩
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定理七は第一部公理四、すなわち因果律の公理に基づいて証明される。「第一部公理四から明白である。なぜなら、結果として生ぜられたおのおのの物の観念は、そうした結果を生じた原因の認識に依存するからである。(定理七証明)」 ↩
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観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。(定理七) ↩
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通常、定理七は並行論を意味するものとして解釈される。私は、この解釈は誤りであるという立場を取る。詳しくは第二部補論 - 並行論についてを参照のこと ↩