真偽論
真偽
普遍概念の形成過程を理解することで、真偽についても理解できるようになる。
先に上げた、「○○さん」の例で考えてみよう。「○○さん」に会った際には、「○○さん」の普遍概念が想起されるだろう。「○○さん」は、想起された普遍概念の通りに動くこともあれば、動かないこともある。いつもはこちらから挨拶をするのに今日は向こうから挨拶してくれた、いつもと同じように今日もニコニコしている、無口だと思っていたのに今日はやけにしゃべる、というように。普遍概念の通りに動けば、その普遍概念は真だったことになり、逆の場合は偽だったことになるわけだ。
妥当・非妥当
スピノザは、ある観念がその対象と一致した場合、その観念は真である、という言い方をする。ただ、これだと一つ困ったことが生じる。実際にその対象に出会わない限り、観念の真偽について語れないことになるのだ。真という言葉は、それを使うための条件が強すぎるのである。
そこで出てくるのが、妥当という言葉である。スピノザは、「真なる観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念」として妥当な観念1を定義する。これだと、対象に出会うという条件が不要になるわけだ。こうして、妥当、あるいは非妥当という形で、真偽について語ることが可能になるのである。
虚偽
真偽について理解すると、虚偽の原因についても理解できるようになる。虚偽が生じるのは、以下の場合である。
- 観念が毀損している場合
- 観念が混乱している場合
「○○さん」と出会ったことが一度しかない状況を想定してみよう。この際、「○○さん」について形成する普遍概念は、初対面時に形成した観念と全く同じものになる。もし、初対面時に「○○さん」がたまたま怒っていたなら、怒りっぽい人として記憶されるだろう。たまたま黙っていたなら、無口な人として記憶されるだろう。そうして形成された普遍概念は、非妥当になるわけだ。二度目に出会った際、想起した普遍概念とは異なる行動を「○○さん」は取ったならば、この普遍概念は虚偽2となる。そしてそれは、毀損した観念が含む、認識の欠乏が原因だということになるのである。
観念が混乱しているために、普遍概念が非妥当になる場合もありうる。普段おとなしい印象を持っていた「○○さん」が、誰かを怒鳴りつけている場面を見たと想定してみよう。かつ、これを機会に普遍概念を形成し直すことをせず、ただの見間違いとして処理したとしよう。この時、その普遍概念は非妥当になるわけだ。その後、「○○さん」と接するうちに、不意にこちらを怒鳴りつけてきたとしよう。この時、「○○さん」について形成していた普遍概念は虚偽となる。そしてその原因は、混乱した観念が含む認識の欠乏だということになるのである。
必ず真となる普遍概念
以上を踏まえると、普遍概念の中には必ず真となるものがあることがわかる。
その一つが公理3だ。例えば個々の経験により、「すべての物体は運動しているか静止しているかである。」という公理を得たとしよう。これが偽となることは、絶対にありえない。というのは、それを否定するような経験を今後することが、そもそもないからである。
もうひとつが、「いくつかの外部の物体に共通でかつ特有」で、「等しくこれら各物体の部分の中にも全体の中にもあるもの」である4。例えば経験により、「太陽は東から上って西に沈む」という普遍概念を得たとしよう。これを否定するような経験は、地上にいる限り決してすることができない。かつこれは「部分の中にも全体の中にもあるもの」であり、時と場合によって経験したり、しなかったりするようなものではない。太陽が空にある間であれば、これは必ず経験されることである。それゆえ、この普遍概念も必ず真となるのである。
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妥当な観念とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。
説明 私は内的特徴と言う。これは外的特徴すなわち観念とその対象との一致を除外するためである。(定義四) ↩ -
虚偽とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。(定理三五) ↩
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すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。(定理三八) ↩
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人間身体および人間身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体に共通でかつ特有であるもの、そして等しくこれら各物体の部分の中にも全体の中にも在るもの、そうしたものの観念もまた精神の中において妥当であるであろう。(定理三九) ↩