三種の認識
我々は、個々の観念を同時に想起し、その一致点・相違点・反対点を比較することによって、外部の物体の妥当な観念を得る。例えば「〇〇さん」という知り合いがいるとすれば、「〇〇さん」に関して経験した個々の観念を比較することで、「〇〇さん」の普遍概念はより妥当になるわけだ1。そして、実際に「〇〇さん」に出会った時に想起する「〇〇さん」の普遍概念が、真となる確率も高まるのである。
一方、物との偶然的な接触に基づく限りでは、妥当な観念を得ることはできない。人間身体の本性そのもの、あるいは外部の物体の本性そのものを直接認識する手段があれば別だが、そのようなものは存在しないからである。
スピノザは、一致点・相違点・反対点を比較することによって形成される普遍概念と、自然法則から形成される普遍概念とをあわせ、第二種の認識と呼ぶ。一方、偶然的な接触で形成される普遍概念を第一種の認識と呼ぶ。
有用なのは第二種の認識だ。第一種の認識は非妥当であり、各人において共通することがない。だが第二種の認識は妥当であり、かつ各人で共通である。さらには、第二種の認識を獲得することで、真偽の区別がつくようになる。他にも第二種の認識の有用性はあるが、それについては第三部以降で示されることになる。
スピノザは、さらに第三種の認識(属性の本質の妥当な認識から形成される普遍概念)があるとしている。これについては、第五部で詳しく見ることにしよう。
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私ははっきり言う――精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いかえれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのものを認識する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず、単に混乱した認識を有するのみである。(定理二九備考) ↩