無数の属性
『エチカ』には、以下の引用のように「無限に多くの属性」があるかのように語っている箇所がいくつかある。これについて考察しよう。
そして同じことが他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのである。ゆえに、神が無限に多くの属性から成っている限りにおいては、神は真に、それ自体においてあるがままの事物の原因である。(定理七備考)
本論で見たように、物体と観念という、別個の秩序および連結があるという主張は誤りである。この主張は、物体の内実について、特に人間身体の特性についての無知に起因する。人間がどのように観念を持ち、想起し、記憶するかについて非妥当な観念しか持っていなかったために、物体と観念という、二つの別個の秩序および連結があるとされたわけだ。
デカルトは、人間身体について妥当な観念を持っていなかったために、物体と観念という二つの秩序および連結を見出した。そして、物体と思考という二つの属性があると主張した。だが、属性の数を二つに限定する必然性はないわけである。デカルトよりも混乱している者がいれば、その者が三つでも、四つでも、また別の秩序と連結を見いだし、それぞれに対応する属性を見出す可能性がある。属性の数は無数に増え得るわけだ。
だが、どれだけ異なる属性を見出していようと、それが全体の一部分を見た結果である点は変わらない。この点で、スピノザによる批判は、デカルトよりも混乱している者にも通じるのだ。スピノザの証明は普遍的なものであり、属性の数を二つ認めている者にも、三つ認めている者にも、さらには無数に認めている者にも通じるのである。スピノザは無数の属性について語ったのは、これが理由である。