民衆の神の批判(定理一~六)
定理一~六では、任意になる観念が存在しないことが示される。その内容は、第一部後半の内容とほぼ同じである。
概要
ここでの想定対象は、民衆の神だ。第一部後半で見たように、民衆は神を
- 内部・外部の原因によって駆られるもの
- 思考と延長とは全く区別されるもの
- 永遠の真理を否定しうるもの
- 個物に介入できるもの
- 知性のうちに無数の世界を持ち、その一つを現実化させたもの
として捉えている。このような神を認めるのであれば、確かに個々の観念は偶然的なものになるわけだ。
そして、この民衆の神については、既に第一部後半で批判されている。定理一~六は、それを再確認するだけのものになっている。
では、個々の定理を見ていこう。
個物の偶然性
思考は神の属性である。あるいは神は思惟する物である。(定理一)
延長は神の属性である。あるいは神は延長した物である。(定理二)
民衆は、個物は神によってつくられたものであり、よってそこには偶然性があると主張する。
だが、既に第一部において、個々の観念・個々の物体は神の様態であり、そこに偶然性はないことが証明されている。定理一、二はそれを確認しているだけである。
神の力
神のうちには必然的に神の本質の、ならびに神の本質から必然的に生起するあらゆるものの、観念が存する。(定理三)
民衆は、「神は個々の観念に対して自由に介入する力を持っている」「よって観念の秩序および連結は偶然的である」と主張する。
これについても、第一部で考察済みである。我々は、無限に多くのものが無限の仕方で生じることを経験することで、神の観念を形成する。それゆえ、神の観念を想起すると、同時に無限に多くのものが無限の仕方で想起されることになる。民衆は、この事態を神の力と呼んでいるわけだ。よって、神の力により、個々の観念の必然性が否定されるわけがないのである。定理三はそれを確認しているだけである。
現実世界以外の世界の可能性
無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じてくる神の観念はただ唯一でしかありえない。(定理四)
民衆は、神がその知性のうちに無数の世界を持っており、その一つを選択してつくりだしたのが現実世界である、と考えている。このため、この世界は偶然的であり、神が望めば他の世界もありえたはずだと主張する。
これについても、第一部で既に否定済みである。スピノザは、第一部では、
- 我々が認識するのは現実世界のみである
- 意志と知性はただの様態であり、民衆の主張するような力はない
の二点を挙げてこれを否定した。定理四は、このうちの前者と同じ仕方で証明されている。
同属性以外のものによる影響
観念の形相的有は、神が思惟する物と見られる限りにおいてのみ神を原因と認め、神が他の属性によって説明される限りにおいてはそうでない。言いかえれば、神の属性の観念ならびに個物の観念は観念された物自身あるいは知覚された物自身を起成原因と認めずに、神が思惟する物である限りにおいて神自身を起成原因と認める。(定理五)
おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。(定理六)
民衆は、観念あるいは物体が、同じ属性以外のものを原因として動くことがあり得る、と主張する。
スピノザは、そもそも定義の段階で、属性間にそのようなことがありえないことは認めているだろう、という仕方でこれを否定する。
まとめ
こうして、
- 個物の偶然性
- 神の力
- 現実世界以外の世界の可能性
- 同属性以外のものによる影響
のいずれの観点においても、偶然性がないということが証明された。こうして、任意の観念が存在する余地はないことが証明されたのである。