我を原因とする観念の否定(定理三~六)

スピノザは、我を原因とする観念がないことを、定理一~六にわたって証明している。
デカルトを対象とした証明は定理一、二で終わっているが、定理三~六ではまた別の観点での証明をしている。それについて、ここでは詳しく見てみる。

民衆の神の否定

定理三~四においてスピノザは、偶然的な観念が存在しないことを証明する。ここでスピノザが想定しているのは、民衆の神だ。民衆は、神が最高の知性と自由な意志を持ち、その知性の内に無数の世界を含んでいると考える。神はその中から一つを選択し、世界を創造した。それゆえ、現にあるのとは異なる世界を創造することも、現にある世界を破壊して無に帰すことも可能である、とする。神の本性が民衆の言う通りのものであれば、観念のうちに偶然性を認めることは可能となるわけだ。だが、神の本性がこのようなものではないことは、既に第一部で証明済みである。

素朴な主張の否定

続いて、定理五~定理六において、「我々は、物体を見ることで観念を受け取る」「ならば、どの観念を持つかは、どの物体を見るか次第である」という素朴な主張についても考察する。これは、既に定義段階で否定されていることだ。物体と精神とは、相互に異なる属性であり、互いに関係し合うことはないということを前提に、『エチカ』の議論ははじまっている。よって、やはりこの主張も誤りなのである。

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