観念の対象は人間身体(定理八~一三)
定理八~一三では、観念の対象が人間身体であることが証明される。
デカルト
ここでも、これまでと同様、デカルトに対して総合的方法が使われている。まずは、デカルトの主張を見てみよう。
デカルトは、次のように主張する。我は考えるものであり、それは個々の観念によって構成されている1。かつ、我が現実に思考している間だけしか、我が存在すると言えない以上、その観念は現実に存在しているものでなければならない2。
スピノザ
スピノザは、これを踏まえたうえで3次のように言う。すべての観念は自然全体の秩序および連結に従うものである。よって「存在する観念」について語る時、君はそれが「自然全体の秩序および連結」に従うことを認めているだろう。かつ、それを「存在する観念」と呼ぶのは、そこに時間的な持続という「存在しない観念」には含まれないものを認めているからだろう、と4。
続けてスピノザは言う。君は「現実に存在する観念」について考える時、自然法則のような普遍的なものを考えてはいないだろう。君がそこで考えているのは有限な観念についてであり、それが他の有限な観念を原因とすること、さらにその原因となる観念もまた他の有限な観念を原因とし、それが無限に続くことを認めているだろう、と5。
さらに、スピノザは次のようにいう。既に証明したように、人間は実体ではない6。人間の本質が存在を含むことはなく、人間が存在することもしないことも、自然全体の秩序および連結によって決まるだろうと7。
以上を踏まえると、人間精神を構成している観念というのは、我ではないものを原因として形成された、必然的な秩序および連結に従うものだということになるわけだ8。我が思考し、個々の観念をもつとしても、それは私が任意に行っているわけではないのである9。では、その観念の対象は何かというと、人間身体だということになるわけだ10。
-
それでは私とは何であることになるのか?考えるものである。これはどういうことか?すなわち、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、また想像し、感覚するものである。(第二省察) ↩
-
私はある、私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か?すなわち私が考える間である。(第二省察) ↩
-
スピノザは、人間精神に関するデカルトの主張を受け入れており、思考することが人間の本性であることも、思考様態が他の様態に先行することも、公理としている。「人間は思考する。(第二部公理二)」「愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。(第二部公理三)」 ↩
-
個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。(定理八系) ↩
-
現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状したと見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。(定理九) ↩
-
人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相を構成しない。(定理一〇) ↩
-
人間の本質は必然的存在を含まない。言いかえれば、このあるいはかの人間が存在することも存在しないことも同様に自然の秩序から起こりうる。(公理一) ↩
-
人間精神の現実の存在を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。(定理一一) ↩
-
スピノザはこれを、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と表現している。「この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。(定理一一系)」 ↩
-
デカルトは、人間身体が多様な仕方で刺激されることを感覚していた。また、スピノザもこれを公理として受け継いでいる。
「まず私は、私が頭、手、足、その他すべての肢体をもっていることを感覚した。私の身体はこれらの肢体から構成されているのだが、その身体を私は、いわば私の部分、あるいはおそらく私の全体とさえ見なしていた。また私は、この身体は、他の多くの物体の間に位置して、これらの物体からさまざまな仕方で、好都合あるいは不都合な仕方で影響されうることも感覚した。(第六省察)」
「我々はある物体が多様の仕方で刺激されるのを感ずる。(公理四)」 ↩