第五部に関係する定理(定理四一~四九)
定理四一~四七は、第五部に関係する定理である。第五部では、「精神の永遠性」「神の愛」について考察されるが、そこで第二部の認識に関する議論が必要になる。そこで用いるために整理をしているのがこの箇所だ。
したがって、この段階ではこれらの定理を読んでも、なぜこのような議論をするかの意味はわからない。ここでは概観のみにとどめ、詳しくは第五部で改めて考察することにしよう。
定理四一~四三
三種の認識について語っている箇所である。ここでは、第一種と第二種の認識についてのみ説明する。第三種の認識については第五部で説明したい。
第一種と第二種の認識
認識とは、個々の事物に出会った時、その事物について事前に形成している普遍概念を想起することを意味する。この普遍概念が非妥当なとき、それを第一種の認識と呼び、この普遍概念が妥当なとき、それを第二種の認識と呼ぶ。
スピノザは、第一種の認識を「感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物から」得るものと、「もろもろの記号から」得るものとに分けている。これによって形成された普遍概念は、偽となる可能性が高いわけだ1。
第二種の認識は、「共通概念あるいは妥当な観念を有すること」によって形成される普遍概念である。これについては、真となる可能性が高いわけだ2。
定理四四~四七
ここでは、精神の永続性について考察される。詳しくは第五部で考察するとして、ここでは未来の観念が意味するところを確認しておこう。
ある日、一人の子供が、朝にペテロ、昼にパウロ、夜にシモンを見たとしよう。そして、翌朝にペテロを見たと仮定しよう。すると、前日に経験した太陽の運行を、各々の時間で出会ったパウロ、シモンとともに想起するわけだ。ここで実際に想起しているのは、前日の経験でしかない。だがそれを、未来に関係したものとして捉えるわけである3。
定理四八~四九
ここでは、スピノザの主張に反する理論を、まとめて批判している。主に、自由意志に関するものだ。
定理四八と四九で、それがスピノザの理論からどのように否定されるかを考察し、定理四九備考において、個々の反論を提示、それへの再反論をする、という形になっている。
理論的な批判
現実に存在する観念であろうと、現実に存在しない観念であろうと、それがどのようなものになるかは、その時の自然全体の状況によって決まる。したがって、絶対的な意志は存在しないことになる4:。
四つの反論
スピノザは、知性と区別される意志が存在する、と主張する者の論拠を、四つ取り上げている。
- 意志は知性より広きにわたること、したがって知性と異なっていること
- 我々の判断を控えて・我々の知覚する事物に同意しないようにすることができること
- 我々は真なるものを真として肯定するにも偽なるものを真として肯定するより以上の能力を要するとは思われない
- ブリダンの驢馬のように平衡状態にある場合、彼は餓えと渇きのために死ぬであろうか
これに対する反論は、以下である。
- 意志が知覚一般あるいは思考能力一般より広きにわたることはこれを否定する
- 判断を控える自由な力が我々にあることを否定することをもって答えとする
- 意志が観念の本質を構成すると見られる限りにおいてはそうでない。なぜならその限りにおいては個々の肯定は観念自身と同様相互に異なっているからである。
- そのような平衡状態に置かれた人間が餓えと渇きのため死ぬであろうことを私はまったく容認する。
定理四九備考
スピノザは、自説の有用性について、定理四九備考において語っている。ただ、これは第五部において初めて明らかになることなので、そこであわせて見たほうが理解しやすいだろう。
- 心情をまったく安らかにしてくれることのほか、さらに、我々の最高の幸福ないし至福がどこに存するかを我々に教えてくれる
- 我々の本性から生じない事柄に対して、どんな態度を我々がとらなければならぬかを教えてくれる
- 共同生活のために寄与する
- 国家社会のためにも少なからず貢献する
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一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物から(この部の定理二九の系を見よ)。このゆえに私は通常こうした知覚を漠然たる経験による認識と呼び慣れている。
二 もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それについて物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成することから(この部の定理一八の備考を見よ)。(定理四〇備考二) ↩ -
三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この部の定理三八の系、定理三九およびその系ならびに定理四〇を見よ)。そしてこれを私は理性あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。(定理四〇備考二) ↩
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ところでここに一人の小児があって、昨日はじめて朝にペテロを、昼にパウロを、夕にシモンを見、そして今日また朝にペテロを見たと仮定しよう。この部の定理一八から明らかなように、彼は暁の光を見るや、ただちに太陽が前日と同じ天域を運行することを表象するであろう。言いかえれば彼は一日全体の経過を表象するであろう。そして朝の時間とともにペテロを、昼の時間とともにパウロを、夕の時間とともにシモンを表象するであろう。それで今彼はパウロとシモンの存在を未来の時間に関連させて表象するであろう、これに反して彼が夕方シモンを見るとしたら、彼はパウロとペテロを過去の時間とともに表象してこの二人を過去の時間に関連させるであろう。そしてこうした表象結合は彼がこれらの人間をこの同じ順序において見る度合が重なるにつれてますます確乎たるものになるであろう。(定理四四備考) ↩
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精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他の原因によって決定され、このようにして無限に進む。
備考 精神の中に認識し・欲求し・愛しなどする絶対的な能力が存しないこともこれと同一の仕方で証明される。この帰結として、これらならびにこれと類似の能力は純然たる想像物であるか、そうでなければ形而上学的有、すなわち我々が個々のものから形成するのを常とする一般的概念にほかならないということになる。(定理四八) ↩