感情の分析

以上の三つの感情、すなわち衝動、喜び、悲しみがすべての感情の基礎にあるものであり、その他の感情はすべてこの三つの感情のみで説明できる、とスピノザは主張する1。「いやいや、流石にそんな単純なものではないでしょう」という読者に対して、一つ一つ感情を取り上げ、理論的な分析をひたすら行い、そのような意見を叩き潰すのが第三部のメインだ。
では、スピノザがどのように分析するかを、特に重要なものから見ていこう。

愛と憎しみ

特定の対象を見た際に、喜びの感情に刺激されることがある。この経験を何度も繰り返すことで、その対象の観念は、喜びの感情と結びつく。例えば、◯◯さんと出会った際にいつも喜んでいたならば、やがて◯◯さんのことを考えるだけで喜ぶようになるわけだ。このような、外的原因の観念を伴った喜びを、スピノザは愛(amor)と定義する2
ここでのポイントは、愛するものの観念を想起するだけで、喜びに刺激されることだ。身体の変状という点では、対象を目の前にしていようと、ただの想起だろうと、そこに違いはないからである3。そして、頭の中で愛する対象を想起しているものは、喜びを維持するために、その想起を阻害するものをできるだけ排除しようとするのである。

憎しみ(odium)についても、同様の仕方で説明することができる。特定の対象を見た際に、悲しみの感情に刺激されることがある。この経験を何度も繰り返すことで、その対象の観念は、悲しみの感情と結びつくことになる。例えば、◯◯さんと出会った際にいつも悲しい気分だったならば、やがて◯◯さんのことを考えるだけで悲しむようになるわけだ。このような、外的原因の観念を伴った悲しみを、スピノザは憎しみと定義する。
ここでのポイントは、憎む対象の観念を想起しただけでも、悲しみに刺激されるということだ。そして、頭の中で憎む対象を想起しているものは、悲しみから解放されるために、別のものを想起しようと努めるのである。

感情の模倣(憐憫・競争心)

我々は、愛や憎しみとは無関係に、見知らぬ人に感情を動かされることがある。通りすがりの人が喜んでいるのを見て嬉しくなったり、泣いているのを見て悲しくなったりするように。
この事態が起きるのは、それによって自分が過去に経験した感情を思い出すからである。喜んでいる人を見れば、自分が過去に喜んだときのことを。悲しんでいる人を見れば、自分が過去に悲しんでいたことを想起して、相手と同じ感情になるわけだ4

ここで模倣する感情が悲しみのとき、それを憐憫(commiseratio)と呼ぶ5
ここで模倣する感情が衝動の時、それを競争心(aemulatio)と呼ぶ6。誰かが好きなものを好きになったり、誰かが欲しがっているものを欲しがったり、誰かが目指しているものを目指したりするのは、感情の模倣によるわけだ。

人々の感情の模倣(名誉・恥辱)

感情の模倣の対象は、一人に限らない。多くの人々が、特定の感情に刺激されている姿を思い浮かべ、それと同じ感情に刺激される場合がある。多くの人々が喜んでいる姿を想像して、自分も喜びの感情に刺激されたり、多くの人々が悲しんでいる姿を想像して、自分も悲しみの感情に刺激されたりするわけである。
我々は、人々が特定の感情に刺激される姿を何度も見ることで、行動規範を形成する。自分がある行為をした時に、周囲の人々が嬉しそうな顔をしていたとすれば、自分も嬉しくなって、再びその行為を行うことになる。反対に、自分のした行為の結果、周囲の人々が悲しそうな顔をしていたとすれば、自分も悲しくなって、その行為を行わないようになる。これと同じことは、他者の行為を見ることでも起こる。他者の行為を、周囲の人々が嬉しそうな顔で見ていたとすれば、自分もそれをやってみようと思うし、悲しそうな顔で見ていたとすれば、自分はやらないでおこうと思うわけだ。こうして、個々の行為は人々の喜ぶ姿や悲しむ姿と結びつけられ、やがては他の人々が気に入るだろうという理由で、ある行為を行ったり、控えたりするようになるのである7。人々が喜ぶだろう行為を行うときには、他の人々が賞賛している姿を思い浮かべ、喜びを感じるだろう。スピノザは、この感情を名誉(gloria)と定義する8。反対に、人々が悲しむことをわかっていてある行為をするときに感じる悲しみを、恥辱(pudor)と定義する9

自己に関する感情(自己満足、謙虚、後悔)

我々は、他の人々の気にいるだろう行為を繰り返すことで、自己を喜びの感情と結びつけて意識するようになる。すると、自己について考えるだけで、喜ぶようになる10。この喜びが自己満足(acquiescentia)である11

我々が、自己の業績を語ったり、精神的、あるいは身体的な力を誇示したりする理由はここにある。かつて自分が人々を喜ばせた行為を思い出すことで、喜びを感じようとしているわけだ。また、この時、自分の行為を特別視しがちである。特別な行為は意識にずっととどまっていられるが、誰でもできる凡庸な行為はそうではないからである。我々が、他者の業績を否定しがちなのは、これが理由なのだ。
反対に、他の人々が疎む行為を繰り返すことで、自分を悲しみの感情と結びつけて意識するようになる。このとき、自己自身について考えれば、それだけで悲しみの感情を感じることになる。これが謙虚(Humilitas)の感情である12
後悔(poenitentia)も謙虚と同様、自身の無能力に関する感情だが、自由意志を前提としている点で異なっている。自分自身を悲しみの感情とともに想起した際、「あのときにこうすればよかった」「本当はこうできていたはずだ」と思い込むことで、後悔は生じるのである13

驚異

特定の対象に出会った際、その対象の観念が意識にとどまり続けることがある14。このことは、その対象がこれまであった誰とも似ていなかったり、その対象から受ける刺激が強力な時に起こる。これが驚異(admiratio)の正体だが15、スピノザは驚異を感情には数えていない。ただ、日常の用途として、驚異が個々の感情と結びついたときに、その感情に別の名前がつけられることがあるとしている。


  1. この三者のほかには私は何ら他の基本的感情を認めない。なぜならその他の諸感情は、以下において示すだろうように、この三者から生ずるものだからである。(定理一一備考) 

  2. すなわち愛とは外的原因の観念を伴った喜びにほかならないし、また憎しみとは外的原因の観念を伴った悲しみにほかならない。なおまた、愛する者は必然的に、その愛する対象を現実に所有しかつ維持しようと努め、これに反して憎む者はその憎む対象を遠ざけかつ破壊しようと努める。(定理一三備考) 

  3. もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。(第二部定理一七) 

  4. 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。(定理二七) 

  5. 感情のこの模倣が悲しみに関する場合には憐憫と呼ばれる。(定理二七) 

  6. ゆえに競争心とは我々と同類の他のものがあることに対する欲望を有すると我々が表象することによって我々の中に生ずる同じ欲望にほかならない。(定理二七備考) 

  7. 我々は人々が喜びをもって眺めると我々の表象するすべてのことをなそうと努めるであろう。また反対に我々は人々が嫌悪すると我々の表象することをなすのを嫌悪するであろう。(定理二九) 

  8. 名誉とは他人から賞讃されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った喜びである。(感情の定義30) 

  9. 恥辱とは他人から非難されると我々の表象する我々のある行為の観念を伴った悲しみである。(感情の定義31) 

  10. もしある人が他の人々を喜びに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は喜びに刺激されかつそれとともに自分自身をその喜びの原因として意識するであろう、すなわち自分自身を喜びをもって見つめるであろう。これに反してもし他の人々を悲しみに刺激すると表象するある事をなしたならば、その人は反対に自分自身を悲しみをもって見つめるであろう。 

  11. 自己満足とは人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである。(感情の定義25) 

  12. 謙虚とは人間が自己の無能力あるいは弱小を観想することから生ずる悲しみである。(感情の定義26) 

  13. 後悔とは我々が精神の自由な決意によってなしたと信ずるある行為の観念を伴った悲しみである。(感情の定義27) 

  14. 我々が以前に他のものと一緒に見た対象、あるいは多くのものと共通な点しか有しないことを我々が表象する対象、そうした対象を我々は、ある特殊の点を有することを表象する対象に対してほどに長くは観想しつづけないであろう。(定理五二) 

  15. 驚異とはある事物の表象がきわめて特殊なものであってその他の表象と何の連結も有しないために、精神がその表象に縛られたままでいる状態である。 

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