コナトゥス
スピノザは、人間は自己の有を維持しようとする本性(コナトゥス)を持つと主張する1。人間がコナトゥスを持つことは、個物の本性から導くことができる。
個物の本性
第二部で考察したように2、個物とは一定のまとまりと一定の運動を有するものである3。要は、個物に見えればそれは個物だということであり、そこに絶対的な基準が存在するわけではない。だから、構成物の一部が入れ替わってもそれを同一の個物として構わないし、社会、民族、国家、あるいは自然全体を個物としてもいいわけだ。
これを踏まえた上で考えてみよう。あるものを個物として認識することは、それが「自己の有を維持しようという本性」を持つと認めることと同義ではないだろうか。もしもその個物がこの本性を持っていなかったとすれば、それは我々の前に個物としてあらわれる以前に、自然全体の秩序および連結の中で雲散霧消してしまっていただろう。我々がそれを一個の個物として捉えている時点で、それがコナトゥスを持つことの証明になるのである。
衝動の感情
我々の持つ観念は、人間身体と外的物体が接触することで生じるものであり、そこには外的物体の本性と同時に、人間身体の本性も含まれている4。そして、人間身体も個物の一つである以上、コナトゥスを持っている。ならば、コナトゥスも観念のうちに含まれているのではないか。我々の持つ衝動や欲望といったものの正体は、このコナトゥスではないか、というのがスピノザの主張である。
喜びと悲しみ
各々の個物はコナトゥスを持ち、自己の有を維持しよう努めている。だが、それが常に実現するわけではない。個物が自己の有を維持できるかどうかは、他の個物との関係性で決まるからである。いくら自己の有の維持を求めようと、他のより強大な個物によってその存在が否定されることがありうる。他の個物と接触する中で適切な対応を取り続けたものが、結果として自己の有を維持し続けるのだ。
常に変化する状況の中で個物は、自己の有を維持している状態と、危機的な状態との間を揺れ動いている。一方の極が、一切の脅威が存在しない平穏であり、もう一方の極が、死に瀕した状態だと言えるだろう。スピノザは、この揺れ動きを完全性の移行、あるいは実在性の移行という言葉で表し、喜びをより大なる完全性への移行、悲しみをより小なる完全性への移行と定義している4。
-
おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。(定理六) ↩
-
個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。(第二部定義七) ↩
-
そこで我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる。この受動が我々に喜びおよび悲しみの感情を説明してくれる。こうして私は以下において喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。(定理一一備考) ↩ ↩2