その他の感情の分析
スピノザは他にも様々な感情を考察している。次はそれを見ていこう。ここまで述べてきた内容を理解していれば、以下の内容も容易に理解できるはずだ。
好感・反発
我々がどの対象を、喜びの感情を結びつけるかは偶然的である1。例えば機嫌のいいときに何度も会った相手を好きになることもあれば、好きな人と似ているという理由で好きになることもあるわけである。これは悲しみの感情においても同様であり、機嫌の悪いときに何度も会った相手を嫌いになることもあれば、嫌いな人と似ているという理由で嫌いになることもあるわけである。
このように、偶然によって好きになった対象に対して持つ感情を好感(propensio)、偶然によって嫌いになった対象に対して持つ感情を反発(aversio)と定義することができる。
帰依・嘲笑
愛と驚異が結びついた感情が帰依(devotio)である。愛する人について考えた時、それと類似のものを想起することができず、それが意識にずっととどまり続けていればそれが帰依と呼ばれるわけだ。
憎むものについて、類似のものをいくらでも想起できる、取るに足らない人物だと思った場合に生じる感情が嘲笑(irrisio)である。
希望・恐怖・安堵・絶望・歓喜・落胆
感情に関係する観念には、時間と結びついたものがある。例えば◯◯さんと待ち合わせをしていたとしよう。◯◯さんが待ち合わせに来るかどうかは最初は不確定だが、時間経過とともに確定していく。電車が遅延しているという情報が入った、もうすぐ到着するという連絡があった、遠くから走ってくる姿が見えた、というように。このとき、◯◯さんが好ましい相手であれば、現れることが確実になるに従って喜びは増大するだろう。逆に、◯◯さんが疎ましい相手であれば、現れることが確実になるに従って悲しみが増大するだろう。
◯◯さんが好ましい相手のときに生じる不確かな喜びが希望(spes)であり、◯◯さんが疎ましい相手のときに生じる不確かな悲しみが恐怖(metus)である。スピノザはそれぞれ、「その結果について疑っている未来または過去のものの表象像から生じる不確かな喜び」「その結果について疑っている未来または過去のものの表象像から生じる不確かな悲しみ」と定義している。
この不確かさは、時間経過によって取り除かれることになる。不確かさが取り除かれ、不確かな喜びが確かな喜びに変わることを、安堵(securitas)と呼ぶ。反対に、不確かな悲しみが確かな悲しみに変わることを絶望(desperatio)と呼ぶ。
ここでは待ち合わせという未来に関する例を出したが、これが過去に関係する場合もある。例えば既に結果がわかっているものの通知が来る、誰かが何かをしでかしたことを聞いてそれを疑っていたが、それが確信にかわるというように。これらの場合は、安堵・絶望という言葉ではなく、歓喜(gaudium)・落胆(conscientiae morsus)という言葉が使われる。
他人の幸せから生じる喜び・悲しみ
我々は、愛するものについてできるだけ考えようと努める。これができるかどうかは、愛するものの完全性が関係する。例えば、愛するものが容易に傷ついたり、何かに依存していたり、不安定な立場にいたりするものであれば、その存在を否定するものが容易に想起されてしまう。反対に、愛するものが他に対抗する力を持つのならば、このような想起は生じにくいわけだ。
愛するものが喜ぶ姿は、愛するものの完全性と結びついている。愛するものが喜ぶことは、愛するものを想起し続けられること、すなわち自分が喜びの感情に刺激され続けることを意味する。これが、愛するものが喜ぶ姿を見ることで、自分も喜ぶ理由である2。
憎むものが喜ぶ姿を見ると悲しくなる理由も同様である。憎むものの喜ぶ姿は、憎むものの完全性と結びついている。このとき、憎むものを否定する観念が想起しにくい。結果、憎むものが頭の中に居座り続けることになり、その間自分は悲しみに刺激され続けるわけだ。
他人の不幸から生じる喜び・悲しみ(憐憫)
愛するものが悲しむ姿を想起すると、悲しみの感情が生じる。これは、愛するものの悲しむ姿が、愛するものの完全性の減少と結びついているからである3。この悲しみが憐憫(commiseratio)である。憐憫の感情からは、その相手をその悲しみの境遇から解放しようという衝動が生じることになる。相手が悲しみから解放されれば、それによって自分も悲しみから解放されるからである。この衝動を、スピノザは慈悲心(benevolentia)と定義している。
憎むものが悲しむ姿を想起すると、喜びの感情が生じる。これは、憎むものの悲しむ姿が、憎むものの完全性の減少と結びついているからである。
好意・憤慨
愛するものを喜ばせる対象を、好きになることがある。これは、この対象が、自身の喜びの原因として捉えられるからである4。一方、愛するものを悲しませる対象を嫌いになるのは、この対象が、自身の悲しみの原因として捉えられるからである。憎むものを喜ばせる対象を嫌いになったり、憎むものを悲しませる対象を好きになったりするのも、同様の理由である5。同じことは、感情の模倣によっても起こる。我々は、見知らぬ誰かを喜ばせる人を好きになるし、見知らぬ誰かを悲しませている人を嫌いになるわけだ。
これが好意(favor)と憤慨(indignatio)であり、それぞれ「他人に親切をなした人に対する愛」「他人に害悪を加えた人に対する憎しみ」と定義される。
買いかぶり・見くびり
我々は、自分の好きな人については買いかぶる(existimatio)傾向がある。これは、我々が「愛するものが喜ぶ姿を想起すれば喜び、悲しむ姿を想起すれば悲しむ」という性質を持つことによる。自分の好きな人の想起をできるだけ維持しようと努めるため、愛するものについては正当以上に感じやすいわけだ6。
反対に、我々は自分の嫌いな人については見くびる(despectus)傾向がある。これは、我々が「憎むものが喜ぶ姿を想起すれば悲しみ、悲しむ姿を想起すれば喜ぶ」という性質を持つことによる。自分の嫌いな人の想起をできるだけ維持しないように努めるため、嫌いなものについては正当以下に感じやすいわけだ7。
ねたみ
我々は、感情の模倣により、誰かが欲しがっているものを欲しがることになる。ここで欲した対象が、ただ一人しか所有することができないものだとしよう。このとき、所有者の存在は、自分がそれを所有できないことを意味する。その所有者は悲しみの感情と結びつけられ、その不幸を喜ぶようになる8。これがねたみ(invidia)の感情である。ここから、競争心がねたみとむすびつきやすいことがわかる。
高慢・自卑
買いかぶりの対象が自分の場合、それは高慢(sperbia)となる。高慢は、「自己への愛のため自分について正当以上に感ずること」と定義される。この感情は、自己満足から生じることがある。先に見たように、我々は自己の業績なり、精神的、身体的力なりを誇示しがちだが、そのときには正当な判断を欠いている場合が多いわけだ9。
見くびりの対象が自分のとき、それは自卑(abjectio)となる。自卑は、「悲しみのために自分について正当以下に感ずること」として定義される。この感情は、他人の意見を眼中におくときや、未来の自分の不確実さについて思うときに生じる。
思慕
愛するものを頭の中で想起したとしても、それはたいてい、現実の刺激によって遮られることになる。これにより、愛するものの想起に伴った喜びは消え、悲しみが生じることになる。愛するものの不在から生じるこの悲しみが、思慕(desiderium)である。ここからは、この悲しみを解消しようとして、その対象を手元に置こうとする衝動が生じることになる10。
感謝
我々は、愛するものに親切にする。それによって相手が喜べば、自分も喜びに刺激されるからである。この時、相手が親切を喜ぶことを期待しており、もしもそれがかなわなかった時は、悲しむことになる11。
親切を受けたものは、親切にしてくれた人を、自己の喜びの原因として意識する。そこで、それに対して親切で報いようとする。これが感謝(gratia , gratitudo)の感情である12。
怒り
怒り(ira)は、「我々の憎む人に対して、憎しみから、害悪を加えるように我々を駆る欲望」として定義される。ただし、これはそれを実行することで、より大きな害悪を自身が受けることが想起される場合は実行されない。
復讐心
他人から害悪を加えられた時、我々はその相手に怒りを抱く。自分が相手からその害悪を受ける理由が一切ないと思った場合、この怒りは復讐心(vindicta)となる。この際には、相手に加えられた害悪をそのまま相手にやり返そうとする13。なぜなら、怒りを感じた時に真っ先に想起されるものが、相手にやられたその害悪だからである。
残忍・苛酷
愛するものが、憎む対象に似ている場合がある。このときには、喜びと同時に悲しみが生じることになる。愛しながら同時に憎む、という状況がありうるわけだ。
この時、憎しみの方が優れば、愛する相手に対して害悪を与えようという衝動が生じることになる。これが残忍(crudelitas)あるいは苛酷(saevitia)の感情である。
大胆・小心
人が何に恐怖するかは偶然的であり、人々一般が恐れるものを全く恐れない場合や、逆に人々一般が全く恐れないものを恐れる場合が生じる。大胆(audacia)あるいは小心(pusillanimitas)という言葉は、ここから出てくる。
臆病・羞恥
自らが欲するものを、何かの理由で欲さないもののことを、臆病(timor)と呼ぶ。これは、予見される大きな悪を、より小さな悪によって避けようとした結果起こることである。自分がこれを手に入れたとすれば、それが原因となってより大きな害悪を被るだろうと想起し、結果それを欲さないというわけだ。
ここで恐れる大きな悪が恥辱である場合、それは羞恥(verecundia)と呼ばれる。それを手に入れたことで、他の人が非難する姿を想像して、手に入れることを諦める、というわけだ。
恐慌
予見される悪を避けようとするが、その行為の結果、やはり別の害悪が予見される場合がある。この場合は、そのどちらを選ぶべきかがわからなくなるわけだ。
ここで予見される害悪がどちらも極めて大きな場合、この恐怖は恐慌(consternatio)と呼ばれる。
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おのおのの物は偶然によって喜び・悲しみあるいは欲望の原因となりうる。(定理一五) ↩
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自分の愛するものが喜びあるいは悲しみに刺激されることを表象する人は、同様に喜びあるいは悲しみに刺激されるであろう。しかもこの両感情が愛されている対象においてより大でありあるいはより小であるのに応じて、この両感情は愛する当人においてもより大でありあるいはより小であるであろう。(定理二一) ↩
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自分の憎むものが悲しみに刺激されることを表象する人は喜びを感ずるであろう。これに反して自分の憎むものが喜びに刺激されることを表象すれば悲しみを感ずるであろう。そしてこの両感情は、その反対の感情が自分の憎むものにおいてより大でありあるいはより小であるのに応じて、より大であり、あるいはより小であるであろう。(定理二三) ↩
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ある人が我々の愛するものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。これに反して、その人が我々の愛するものを悲しみに刺激することを我々が表象するならば、我々は反対にその人に対して憎しみに刺激されるであろう。(定理二二) ↩
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ある人が我々の憎むものを喜びに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対しても憎しみに刺激されるであろう。反対にその人が我々の憎むものを悲しみに刺激することを我々が表象するなら、我々はその人に対して愛に刺激されるであろう。(定理二四) ↩
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我々は、我々自身あるいは我々の愛するものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを、我々自身および我々の愛するものについて肯定しようと努める。また反対に、我々自身あるいは我々の愛するものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。(定理二五) ↩
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我々は、我々の憎むものを悲しみに刺激すると表象するすべてのものをその憎むものについて肯定しようと努める。また反対に我々の憎むものを喜びに刺激すると表象するすべてのものを否定しようと努める。(定理二六) ↩
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ただ一人だけしか所有しえぬようなものをある人が享受するのを我々が表象するなら、我々はその人にそのものを所有させないように努めるであろう。(定理三二) ↩
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各人は自分を喜びに刺激すると表象するすべてのものを自分について表象しようと努めるのであるから、名誉を好む人間が高慢になり、またみなに嫌われていながらみなに気に入られていると表象する、というようなことが容易に起こりうるのである。(定理三〇備考) ↩
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かつて享楽したものを想起する人は、最初にそれを享楽したと同じ事情のもとにそれを所有しようと欲する。(定理三六) ↩
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愛に基づいて、あるいは名誉を期待して、ある人に親切をなした人は、その親切が感謝をもって受け取られないことを見るなら悲しみを感ずるであろう。(定理四二) ↩
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感謝とは我々に対して愛の感情から親切をなした人に対して親切を報いようと努める欲望あるいは同様な愛の情熱である。(定義34) ↩
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もしある人が、前に自分がいかなる感情もいだいていなかった他人から憎しみのゆえにある害悪を加えられたことを表象するなら、彼はただちに同じ害悪をその他人に報いようと努めるであろう。(定理四〇系二) ↩