能動の感情
以上が、スピノザによる感情の分析だ。三つの基礎的な感情から、それ以外の感情を導くというスピノザの試みは、成功していると私は思う。
これまでの考察を経て、理解できるようになることがいくつかある。
コナトゥスが基礎
一つが、我々の感情や行為の根底にあるのがコナトゥスであることだ。個物であることに起因する、自己の有を維持しようという衝動が最初に来るのであり、判断その他はその後なのである。スピノザはこれを「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する(定理九備考)」と簡潔に表現している。
非妥当な観念
我々の基礎にコナトゥスがあることは確かでも、我々が常に自己の利益に適う行為をしているわけではない。それは、我々の持つ観念が非妥当なものだからである。
自己の有の維持という観点でいえば、ある時点でどの行為を行うべきかは一意的に決まる。もしも、自分の周囲にあるすべての個物の本性を理解していたならば、常に適切な行為のみを行えただろう。だが、我々の知識は脆弱であり、たいていのものについて非妥当な観念しか持っていない。我々の周囲には、人なり物なり組織なり国家なり、様々な個物が存在する。だが、それらがどういう本性を持つか、それらが自分にとって有益か、それとも有害かを知らない場合が多々あるわけだ。結果、状況に応じて我々の感情は刺激され、その感情にしたがって何らかの行為をしているのである。
精神の受動
我々は、周囲の個物について非妥当な観念しか持っておらず、それらの動向によって振り回されている。その個物のいくつかは、愛するものだったり、憎むものだったりするかもしれない。あるいは通りすがりの人かもしれないし、頭の中に存在する人々一般の観念かもしれない。これらの個物は我々を、あるときは喜びの感情に、またあるときは悲しみの感情に刺激する。さらにはその他の諸々の諸感情、例えば、ねたみ、怒り、復讐心、競争心、憐憫、名誉、恥辱その他、ここまで扱った様々な感情に刺激する。これらの感情に従ってなされる行為は、自己の有の維持を実現するという、自己の本性に従ったものではないわけだ。スピノザは、これを精神の受動と呼ぶ1。
精神の能動
他方、精神の能動も存在する2 3。それは、周囲の個物について、妥当な観念を持っている時の状態である。このときには、自己の有の維持の実現という、自己の本性に適う行為をすることができる。ここで生じる感情は、自己の有を維持しようという衝動と、その実現によって生じる喜びのみだろう4。
通常、我々は受動の感情のうちに、価値を見出しがちである。例えば憐憫を人間同士の紐帯に必要なものとし、競争心には模倣以上の何かを見出し、謙虚を徳に数え、希望を素晴らしいものとする。それにスピノザは異を唱えているのである。これらは単に非妥当な観念に起因するものに過ぎず、追求する意味などない。重要なのは能動の感情であり、そのために周囲の個物について妥当な観念を形成することなのである。「笑わず、泣かず、呪わず、ただ理解すること」が我々のなすべきことなのだ。
では、どうすれば受動を脱して能動になれるか、という話になるが、これについては第五部で考察されることになる。
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精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。(定理三) ↩
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感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状、また同時にそうした変状の観念であると解する。そこでもし我々がそうした変状のどれかの妥当な原因でありうるなら、その時私は感情を能動と解し、そうでない場合は受動と解する。(定義三) ↩
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受動である喜びおよび欲望のほかに、働きをなす限りにおける我々に関係する他の喜びおよび欲望の感情が存する。(定理五八) ↩
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すべて、働きをなす限りにおいての精神に関係する感情には、喜びあるいは欲望に関する感情があるだけである。(定理五九) ↩