受動と能動
以上が、スピノザによる感情の分析だ。三つの基礎的な感情から、それ以外の感情を導くというスピノザの試みは、成功していると私は思う。
ここまでの考察を経ることで、精神の受動と、精神の能動が意味することを理解できるようになる。
精神の受動
我々の感情や行為の根底にあるのは、自己の有を維持しようとする衝動である。そして、自己の有の維持は、他の個物に対して適切な対応を取り続けることで、実現することができる。
だが、我々が他の個物について持つ観念は、非妥当なものであることが多い。このとき、自己の感情と行為は、他の個物によって振り回されることになる。例えば、愛する者や憎む者がいるとすれば、その者の一々の振る舞いにより、感情がかき乱されることになるだろう。街を歩いていて、通りすがりの人が喜んでいるのを見たり、悲しんでいるのを見たりすれば、同様の感情を抱くだろう。時には、憐憫の情から、何らかの行為をすることになるかもしれない。またあるとき、人々の普遍概念を想起して、競争心をかき立てられ、特定の品物なり、地位なりを求めたりするだろう。希望や恐怖の感情を抱き、右往左往することもあるだろう。過去の自分を想起して、喜びの感情を抱いたり、悲しみの感情を抱いたりするだろう。このように、他の個物について非妥当な観念を持つ限り、その時々で異なる感情に支配され、自己の有の維持と結びつくか否かが不確かな行為をすることになるわけだ。このように、非妥当な観念によって感情と行為が規定される事態を、スピノザは精神の受動(passiones)と呼ぶ1。
精神の能動
他方、他の個物について持つ観念が妥当である場合、周囲の個物によって振り回されることはない。このときはただ、自己の有を維持しようという衝動と、その実現によって生じる喜びのみを意識することになる。そして、自己の有の維持にとって適切な行動を行うことができる。この事態を、スピノザは精神の能動(actiones)と呼ぶ2 3。
通常、我々は受動の感情のうちに、価値を見出しがちである。例えば憐憫を人間同士の紐帯に必要なものとし、競争心には模倣以上の何かを見出し、謙虚を徳に数え、希望を素晴らしいものとする。それにスピノザは異を唱えているのである。これらは単に非妥当な観念に起因するものに過ぎず、追求する意味などない。重要なのは能動の感情であり、そのために周囲の個物について妥当な観念を形成することなのである。「笑わず、泣かず、呪わず、ただ理解すること」が我々のなすべきことなのだ。
では、どうすれば受動を脱して能動になれるか、という話になるが、これについては第五部で考察されることになる。