感情への従属

概要

第四部で最初に考察されるのが、「人間の無力および一貫性のなさの原因、ならびに人間が理性の命令に従わないことの原因」についてだ1。一般に、人間は理性という力を持ち、それによって感情を絶対的に制御できるとされる。だが、実際にそれを実現している人は稀だ。大抵の者は、感情に振り回され、不利益な行為をしている。その理由について、スピノザはここで分析するわけだ。

感情への従属

第三部を既に理解している者であれば、人間が感情に従属する理由がわかるはずだ。我々が感情に従属するのは、周囲の個物について、非妥当な観念しか持っていないからである。これらの個物は、我々を様々な感情に刺激する。あるときはねたみに、あるときは怒りに、またあるときは憐憫に、といったように。これらの感情に従ってなされる行為は、自己にとって不適切なものになるわけだ。
外的な個物に対する感情は、その個物について妥当な観念を持てば解消する。だが、いくら妥当な観念を持とうと努めても、それが実現しないことは多々ある。例えば、誰かが不当な行為をしてきた場合、それに対して全く怒らないでいることは難しいわけだ。我々が妥当な認識を持てるか否かは、他の個物との相対的な関係によって決まる。そして、力及ばず他の個物に圧倒され、特定の感情に執拗につきまとわれる事態もありうるのである2

善あるいは悪の認識の効力

「だが、我々は理性という、感情を制御する力を持っているのではないか」「我々は善悪の認識を持っている。これは感情とは全くの別物だ。理性の力を使えば、これによって感情を抑えることもできるのではないか」と思う者がいるかもしれない。次はこれについて考えてみよう。
まず、我々は感情を制御する絶対的な力を持っていない。これは、これまでの内容を理解していればわかることである。
次に、感情と全く別物であるような善悪の認識も存在しない。我々の持つ衝動や、喜びや悲しみといった感情は、すべてコナトゥスに起因する3。善悪が感情とは別物だと主張するのであれば、「じゃあ何に由来するというの?」と聞かれることになるわけだ。

善悪

善悪について、もう少し詳しく見てみよう。我々は、多くの人間に接し、様々な経験を積むことで、理想の人間像を形成する。それがどのようなものになるかは環境次第だが、例えば高給取りになりたい、人々から尊敬されたい、健康でいたいという漠然としたものもあれば、大学を卒業したい、画家になりたい、政治家になりたい、○○さんみたいになりたい、といった具体的なものもあるだろう。
理想の人間像が形成されると、それに近づく手段として適切か否かで、個々の行為が分類されることになる4。例えば「大学を卒業したい」が理想の人間像であれば、授業に出ること、課題をすること、規則正しい生活をすることが、そこに近づく手段として意識され、遊び呆けること、不規則な生活をすることが、そこから遠ざかる行為として意識されるわけだ。こうした経験を繰り返すことで形成される普遍概念が、善と悪の認識なのである5

善悪の認識の効果

理想の人間像が「大学を卒業する自分」だと仮定しよう。あるとき、酒を前にして、それを飲もうという衝動が生じたとする。この際、酒を飲んだ結果、自分が試験に落ちる姿なり、がっかりした周囲の人々の姿なりを想起すれば、その衝動を抑えることができる。また別のあるとき、教科書を前にしたが全くそれを読む気にならなかったとする。この際、それを読むことで、自分が試験に受かった姿なり、自分を褒めてくれる周囲の人々の姿なり想起すれば、教科書を開いて勉強を開始することができるわけだ。これが、善悪の認識の効果である。
ここで起こっていることは、ある感情が、別の強力な感情によって抑制されたという話でしかない6。だが、観念や感情の本性について、十分な知識を持っていない者は、ここで起こっていることを表面的にしか捉えられない。そして、この事態を「理性が感情を制御した」という言葉で表現するのである7

善悪の認識の脆弱性

では、善悪の認識は、感情の抑制においてどれだけの力を持つだろうか。それほど頼りにならなさそうだ、というのがスピノザの分析である。
善悪の観念は、「未来に関係する」「偶然的である」という性質を持つ。先の例で言えば、酒を我慢し、教科書を開いて勉強することが報われるのは大学を卒業したときであり、かつ、それらの行為がその結果に確実に結びつくとは限らない。一方、我々を感情に従属させる対象の観念は、「現在に関係する」「必然性を持つ」という性質を持つ。酒を飲めば、すぐにその効果が身体に現れることは、必然的なわけだ。未来に関係し偶然的である観念と、現在に関係し必然的である観念とでは、当然後者の方が強力である8 9。我々が理性によって感情を統御できないのは、これが理由なのである。

まとめ

我々は外的なものに絶対的に対抗する力を持っていない。善と悪の認識を持っていようと、その時々で出会う対象によって感情に振り回されている。そして、自分にとって有益なことではなく、不利益なことをしてしまうのだ。
では、我々は感情に隷属するだけで、それへの対抗手段などないという悲観的な結論になるのかというと、もちろんそうではない。対抗手段については、第五部で考察されることになる。


  1. 定理一~定理一八の範囲 

  2. ある受動ないし感情の力は人間のその他の働きないし能力を凌駕することができ、かくてそのような感情は執拗に人間につきまとうことになる。(定理六) 

  3. 善および悪の認識は、我々に意識された限りにおける喜びあるいは悲しみの感情にほかならない。(定理八) 

  4. そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が認識するものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が認識するものであると解するであろう。(序言) 

  5. 善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思考の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。(序言) 

  6. 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。(定理一四) 

  7. スピノザは、ストア派とデカルトを、このような主張をしている者の例として挙げている。第五部序言参照。 

  8. 善および悪の認識が未来に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在において快を与える物に対する欲望によっていっそう容易に抑制あるいは圧倒されうる。 

  9. 善および悪の真の認識が偶然的な物に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在の物に対する欲望によってさらにいっそう抑制されうる。 

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