倫理学
概要
続いて、「何が人間の行為として適切か」という倫理学の話に入る1。ここでの想定相手は、スピノザと同じ国家に所属する、統治者側の人間である。この相手は、人が自己の利益を追求することは不徳だと考え、国家のためにも控えるべきだとしている。また、喜びの感情について否定的であり、憐憫や謙遜といった、悲しみに属する感情に大きな価値を認めている。
スピノザは、この主張が誤りだと考える。この誤りは、人間本性と国家の本性についての認識の曖昧さに起因するとして、まずこれらの明確化を行う。
人間本性と国家の本性の分析
人間本性
人間の基礎にあるのは、自己の有を維持しようという衝動である。人間の行動原理をたどっていくと最後に突き当たるのがこれであり、他のことはすべて、これを実現する手段として適切か否かで評価される。よって、「何が人間の行為として適切か」という問いは、「何が自己の有の維持の実現には適切か」という問いに言い換えることができるわけだ。
自己の有の維持が実際に意味することは、「身体を快活な状態に保つこと」「妥当な観念を形成できるよう、外部の物体を十分に把握できる身体状態を保つこと」「自己にとって有利な状況を作れるよう、外部の物体に対して十分に働きかけられる身体状態を保つこと」である。これによって、外的な個物に感情を乱されての不適切な行為ではなく、自己にとって有益な行為ができるわけだ。自己の有の維持を実現するこの力を、スピノザは徳(virtus)と呼ぶ。また、非妥当な観念に従ってなされる感情的な行為と対比して、妥当な観念に従ってなされる行為を理性(ratio)による行為と呼ぶ。
国家の本性
自己の有の維持の実現には、外的な個物との交渉が必要になる。例えば、何も食べることができなければ、我々は死んでしまうわけだ。だが、この交渉が常に成功する保証はない。自然には、我々を凌駕する強大な個物が無数に存在しており2、それに対して我々が持つ力は、微々たるものでしかないからだ。
この問題を解決するにはどうすればいいだろうか。それには、同じ本性を持つもの同士が一つにまとまり、一つの方向に向かえばいい。例えば、互いに生活必需品を融通しあい、脅威に対しては協同して立ち向かう、というように。そうすれば、我々は一個の強大な個物として、他の個物に対抗できるだろう。こうして、単独では難しかった自己の有の維持の実現が、可能になるわけだ3。
国家内の対立
こうして形成された国家においてのみ、我々は自己の有を維持することができる。すべての人間が妥当な認識を持っていたならば、国家内の他の人間を、自己の有の維持に必須の有益なものとして捉えただろう。そして、構成員同士の争いもなかっただろう4。だが、実際には、国家内には対立が存在する。それはなぜだろうか。それは、各自が持つ観念が非妥当だからである。人は非妥当な観念を持つ限り、感情にしたがって行為する。この時、各自が一致する保証は存在しない。むしろ、相互に憎み、相争うことになるわけだ5。
以上から、自己の利益の追求が、人間同士の紐帯の基礎にあることがわかる。自己の利益を実現しようと思えば、他の人間の利益を、さらには国家全体の利益を実現せざるを得ないことに、国家の基礎があるのだ6。
有徳的な行為
人間の本性と国家の本性が明確化されたことで、「何が人間の行為として適切か」がわかるようになる。つまりは、自己の有の維持の実現にとって適切な、有徳的な行為をすればいいわけだ。
まず、身体を快活な状態に保つことが必須である7。これがなければ自己の有の維持も何もないのだから、当然と言えば当然だろう。
また、妥当な観念を形成できるよう、外部の物体を十分に把握できる身体状態を保つことと、自己にとって有利な状況を作れるよう、外部の物体に対して十分に働きかけられる身体状態を保つことが重要である8。これらによって、我々は自己の有の維持を実現できるのだ。
また、共同生活に資するものを、重視すべきだということになる9。人間は、実質的には国家内でしか、自己の有の維持を実現できないからだ。国家のために行為することが、ひいては自己の有の維持につながるのである。
一般的に徳とされる感情の評価
以上を踏まえた上で、個々の感情の評価に移ろう。
悲しみ
まず重要なのが、悲しみの感情には、それ自体では追求する価値がないということである10。喜びの感情は大なる完全性への移行を、悲しみの感情はより小なる完全性への移行を意味する。自己の有の維持という観点で言えば、喜びの感情こそが求められるべきものなのだ。
ただ、喜びの感情は過度になる場合がある11。例えば愛は喜びの感情を伴うものだが、それが度を超えた場合、特定の対象がずっと意識に残り、四六時中その対象について考えることになる12。こうなると、現実に起こる様々な問題に対しての、適切な対処ができなくなるだろう。また、飲酒欲や美味欲は喜びと結びついた感情であるが、これが度を超すと体を壊すことになる。このような感情は、その行為の行き着く先が、恐怖の感情を伴うものであることを想起することで、抑制できる。例えば自己が破滅した姿なり、体を壊して何もできなくなった姿なりを想起すればいいわけだ。このように、過度の喜びを抑制できる場合には、悲しみの感情にも価値があるのである。
ただし、これは悲しみそれ自体に価値があることを意味するわけではない。我々が求めるべきは、あくまでも喜びなのである。
希望・恐怖
希望および恐怖の感情は善ではありえない13。それらは悲しみの感情を含み、かつ非妥当な観念の存在を前提としているからである。我々は、すべてを必然ととらえた上で、認識の欠如を埋め、自己に利益をもたらす行為を淡々と選択し続けるべきなのである14。
謙遜・後悔
謙遜も後悔も、自己の無力さを認識することで生じる悲しみであり、よって無益である15 16。それは、自分が他の個物によって圧倒され、受動の状態に陥っていることを示すものでしかない。それは徳でもなんでもなく、自己の無力さの現れでしかないのだ。
国家的な意図
では、なぜこれらの感情は、一般に価値があるかのように思われているのだろうか。それは、民衆の統治という観点からは、これらの感情が有益だからである17。
ここまで『エチカ』で述べられてきたような内容を、民衆すべてが理解することは、まず無理である。ならば、希望、恐怖、謙遜、後悔といった感情で民衆を統治した方がよい。これらがなければ、皆が高慢で、無恥で、何ごとも恐れずに行為することになるだろう。そしてそれは、国家の崩壊をもたらすだろう。よって、たとえそれが理性にかなったものでなくても、民衆をこれらの感情に従わせたほうが、まだましなのである。ただ、ここまで『エチカ』を理解してきた我々としては、それにとらわれる必要は特にないわけだ。
国家的な観点における感情の評価
無知に起因する感情
国家的な観点からも、自己の有の維持という観点からも、無用な感情が存在する。それが買いかぶり・見下し・高慢・自卑といった、無知に根ざす感情だ。この中でも最悪なのが高慢である18。この感情は、自己についての無知に起因するが、自己について無知なものは、自己にとって何が有益かを判断することが決してできない。さらに、これは自卑とは違い、喜びの感情と結びついているため、修正することが難しい。そして高慢な者は、偽りの観念を維持するために追従者を求める。さらに、自分を正当に評価する人間を憎むことになる。この点で、国家的にも厄介者になってしまうのである。
憐憫
憐憫の感情は、国家の紐帯とされることがあるが、これは誤っている。人間同士の紐帯となるのは、各人が自己の有の維持を追求することにある。自己の利益を追求すれば、他の人間の利益も追求せざるを得ないということが、国家の基礎にあるわけだ。
そして、憐憫の感情は悲しみの感情の一種であり、それ自体に価値があるものではない。この感情は、妥当な観念を持つものにとっては不要なのである。それに、憐憫の感情に従ってなされた行為が、適切なものになる保証もない。憐憫の情は、相手が悪人であろうと、その涙が偽りであろうと、同様に引き起こされるものだからだ19。
それでも感情は必要ではという意見への反論
スピノザは受動の感情が不要だと言ってるが、このように言ってしまうと、「そうはいっても感情が必要な場合があるのではないか、例えば目の前の人が悲しんでいる時には、一緒に悲しんであげることが必要なのではないか」といった反論が浮かぶかもしれない。スピノザはこのような反論についてもあらかじめ予期しており、これについての答えを用意している。それが以下だ。
我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によって決定されることができる。(定理五九)
要は、特定の感情を持ってなくても、その感情を持っている振りはできるだろうと言うわけだ。日々の生活において、憐憫なり、謙遜なり、後悔なりの感情を求められることがあるかもしれない。だったら、単純に憐憫を持っている振り、謙遜をしている振り、後悔をしている振りをしたらいいだけじゃないか、実際にその感情にとらわれる必要性などないだろう、というわけだ。
理想的な人間像
以上の分析により、一般的に価値があると思われている感情は、実は無価値であることがわかった。すると当然問題になるのが、「価値のある感情とはなにか」「具体的にどう生きればいいと言うのか」である。これについて、スピノザがまとめていることを見ていこう。
理性と一致する感情
スピノザは、自己満足(acquiescentia)を理性と一致する感情として挙げている。これは、妥当な観念を持つ状態において感じる喜びであり、受動の感情と違って他の対象は関係ない。よって最高の満足がここから得られるわけである。
また、好意(favor)と名誉(gloria)も理性と一致する20。好意とは他人に親切をなした人に対する愛であり、名誉は人々が喜んでいる姿を想起することで得られる喜びだ。これらは喜びの感情であり、さらに国家にも寄与するわけだ。ただし、名誉だと思っているものが、何ら実態のないものに過ぎない場合があるから、この点には気をつけるべきだとする。
他者への対応において有用な感情
非妥当な観念を持ち、受動の感情に従属している者が、自分を憎しみの対象にする場合がありうる。この場合に有効なものとして、スピノザがあげる感情が、愛と寛仁(generositas)だ21。寛仁は憐憫と対比される感情で、他者の利益の実現が、自己の利益の実現につながると確信した上で行う援助を意味する。これらの感情で報いれば、相手は我々の観念を喜びの感情と結びつけ、結果憎しみが愛へと移行するだろう、というわけだ。
理性的な人間の振る舞い
スピノザは、理性的な人間がどのように振る舞うべきかについても、具体的に説明する。その内容は、「恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれていない。(定理六三)」「自由の人は何についてよりも死について思惟することが最も少ない。そして彼の知恵は死についての省察ではなくて、生についての省察である。
(定理六七)」「自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。(定理七一)」「理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。(定理七三)」といった内容だ。証明を目的としたこれまでの定理とは異なり、ここでの定理は、個々の事態での対処で迷った際に参照することを想定した、箴言的なものとなっている。中には「自由の人の徳は危難を回避するにあたっても危難を克服するにあたってと同様にその偉大さが示される。(定理六九)」「無知の人々の間に生活する自由の人はできるだけ彼らの親切を避けようとつとめる。(定理七〇)」といった、スピノザが実際に質問されたであろう内容のものもあって面白い。きっと、「どんな場合でも逃げるべきではないのではないか」「民衆と付き合っていて不快になることがあったのだがどうすればよかったのか」等、友人がスピノザに聞いてきたのだろう。この箇所を見ると、『エチカ』が実践のために書かれた書物であることがよくわかるはずだ。
-
定理一九~定理七三の範囲 ↩
-
自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在する。(公理) ↩
-
あえて言うが、人間が自己の有を維持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、すなわちすべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。(定理一八備考) ↩
-
人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。 ↩
-
人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。(定理三四) ↩
-
おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求める時に、人間は相互に最も有益である。(定理三五系二) ↩
-
人間身体の諸部分における運動および静止の相互の割合が維持されるようにさせるものは善である。これに反して人間身体の諸部分が相互に運動および静止の異なった割合をとるようにさせるものは悪である。(定理三九) ↩
-
人間身体を多くの仕方で刺激されうるような状態にさせるもの、あるいは人間身体をして外部の物体を多くの仕方で刺激するのに適するようにさせるものは、人間にとって有益である。そしてそれは、身体が多くの仕方で刺激されることおよび他の物体を刺激することにより適するようにさせるに従ってそれだけ有益である。これに反して身体のそうした適性を減少させるものは有害である。(定理三八) ↩
-
人間の共同社会に役立つもの、あるいは人間を和合して生活するようにさせるものは有益である。これに反して国家の中に不和をもたらすものは悪である。(定理四〇) ↩
-
喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。(定理四一) ↩
-
愛および欲望は過度になりうる。(定理四四) ↩
-
すなわち我々が日々捉われる諸感情は、もっぱら身体の何らかの部分がその他の部分以上に刺激されるのに関係するのであり、したがってそうした感情は一般に過度になり、精神をただ一つの対象の考察に引きとどめて精神が他のことについて思考しえないようにするのである。(定理四四備考) ↩
-
希望および恐怖の感情はそれ自体では善でありえない。(定理四七) ↩
-
だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめるにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできるだけ運命を支配し・我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く努める。(定理四七備考) ↩
-
謙遜は徳ではない。すなわち理性からは生じない。(定理五三) ↩
-
後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。(定理五四) ↩
-
人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつかあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。なぜなら、もし精神の無力な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されえようか。民衆は恐れを知らない時に恐るべきものである。(定理五四備考) ↩
-
最大の高慢あるいは最大の自卑は精神の最大の無能力を表示する。(定理五六) ↩
-
一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に価する何ものも見いださないであろうし、また何びとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳が及ぶ限り、いわゆる正しく行ないて自ら楽しむことに努めるであろう。これに加えて、容易に憐憫の感情を催し他人の不幸や涙に動かされる者は、のちにいたって自ら悔いるような行ないをしばしばなしているのである。なぜなら我々は、感情に基づいては、善であると我々の確知するような何ごとをもなすものでなく、また我々は偽わりの涙に容易に欺かれるからである。 ↩
-
好意は理性と矛盾せず、むしろそれと一致することができ、またそれから生ずることができる。(定理五一) ↩
-
理性の導きに従って生活する人は、できるだけ、自分に対する他人の憎しみ、怒り、軽蔑などを逆に愛あるいは寛仁で報いるように努める。(定理四六) ↩