善悪の認識
善悪とは何か
「人間は理性という、感情を制御する力を持っているはずなのに、なぜ感情に支配されるのか」「なぜ人は善を見ながら悪に従うのか」という問いへのスピノザの答えは、「そもそも感情を絶対的に抑制するような力などないから」である。これを理解するために、まずは善と悪が意味することを見ていこう。
我々は、多くの人間に接し、様々な経験を積むことで、理想の人間像を形成する。それがどのようなものになるかは環境次第だが、例えば安定した生活を送りたい、人々から尊敬されたい、健康でありたいという漠然としたものもあれば、大学を卒業したい、どこどこの企業に就職したい、小説家になりたい、○○さんみたいになりたい、といった具体的なものもあるだろう。
理想の人間像が形成されると、それに近づく手段として適切かどうかで、個々の行為が分類されることになる1。例えば「大学を卒業したい」が理想の人間像であれば、授業に出ること、課題をすること、規則正しい生活をすることが、そこに近づく手段として意識され、遊び呆けること、不規則な生活をすることが、そこから遠ざかる行為として意識されるわけだ。こうした経験を経て形成される普遍概念が、善と悪である。我々が善という言葉で実際に思い浮かべているのは、これまでに経験した「理想的な人間に近づく手段」であり、悪という言葉で実際に思い浮かべているのは「理想的な人間に近づくのを妨げる手段」なのである2。
善悪の認識の効果
こうして形成された善悪の観念は、個々の行為の際に想起される。
理想の人間像が「大学を卒業する自分」だとしよう。すると、酒でも飲むかと冷蔵庫を開けた時、酒を飲んでばかりで授業に出れない自分の姿や、それを見てがっかりしている誰かの姿を想起することになる。そして、酒を飲むという衝動が抑えられ、そっと冷蔵庫を閉めることになるわけだ。またあるとき、机の前に座ってはみたものの、教科書を開く気に全くなれなかったとしよう。この時、教科書を読み込んだことで試験に受かった自分の姿や、その姿を見て褒めてくれる人々を想起することになる。すると、教科書を開いて勉強をはじめることができるわけだ。このように、個々の機会に善悪の観念を想起することで、理想の人間へ近づく行為ができるわけだ。
ここで起こっていることは、ある感情を伴う観念が、より大きな刺激を持つ感情を含む観念によって抑制されたということでしかない3。これまで観念・感情について語ってきたことと、同じ枠内の話でしかないのだ。感情とは異なる別の力があり、それによって感情が制御された、というわけではないのである。善悪の観念は、それが感情として強力な場合に、他の感情を排除することができる、というだけなのである。それはあくまでも相対的な話でしかない。だから、他の感情によって圧倒されることもありうるのだ4。
だが、観念や感情の本性について、十分な知識を持っていない者は、ここで起こっていることを表面的しか捉えられない。そして、この事態を「理性が感情を制御した」という言葉で表現するのである。
善悪の認識の脆弱性
では、善悪の観念は、他の感情の制御においてどれだけの力を持つだろうか。それほど頼りにならなさそうだ、というのがスピノザの分析である。
善悪の観念は、「未来に関係する」「偶然的である」という性質を持つ。先の例で言えば、酒を我慢し、教科書を開いて勉強することが報われるのは、何年も先に大学を卒業したときであり、かつ、それらの行為が結果に確実に結びつくとは限らない。酒を我慢しようと、教科書を開いて勉強をしようと、大学を卒業できないことはありうるのだ。一方、我々を感情に従属させる対象の観念は、「現在に関係する」「必然的である」という性質を持つ。酒を飲めば、すぐにその効果が身体に現れることは、必然的なのである。未来に関係し偶然的である観念と、現在に関係し必然的である観念とでは、当然後者の方が強力である5 6。我々が善を見ながら悪に従うのは、これが理由なのである。
では、我々は感情に隷属するだけで、それへの対抗手段などないという悲観的な結論になるのかというと、もちろんそうではない。対抗手段については、第五部で考察されることになる。
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善および悪に関して言えば、それらもまた、事物がそれ自体で見られる限り、事物における何の積極的なものも表示せず、思考の様態、すなわち我々が事物を相互に比較することによって形成する概念、にほかならない。(序言) ↩
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そこで私は以下において、善とは我々が我々の形成する人間本性の型にますます近づく手段になることを我々が知るものであると解するであろう。これに反して、悪とは我々がその型に一致するようになるのに妨げとなることを我々が知るものであると解するであろう。(序言) ↩
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善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれが感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。(定理一四) ↩
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善および悪の真の認識から生ずる欲望は、我々の捉われる諸感情から生ずる多くの他の欲望によって圧倒されあるいは抑制されうる。(定理一五) ↩
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善および悪の認識が未来に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在において快を与える物に対する欲望によっていっそう容易に抑制あるいは圧倒されうる。(定理一六) ↩
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善および悪の真の認識が偶然的な物に関係する限り、その認識から生ずる欲望は、現在の物に対する欲望によってさらにいっそう抑制されうる。(定理一七) ↩