国家
次にスピノザは、国家について考察する。
国家の考察をするのは、それが倫理学に必須だからである。人間が国家外で生きることは、実質的に不可能だ。そして、各自が抱える問題は、国家、あるいは同じ国家に所属する者との関係性によることが大半である。倫理学について語るには、どうしても国家について考察する必要があるのである。国家という枠組みを外れて倫理学を語ることには、あまり意味がないのだ。
自然状態
スピノザは、自然状態(status naturalis)にいる人間が、どのようにして国家状態(status civilis)に至るかを考察する。
自然状態の人間の基礎にあるのは、自己保存の衝動である。この自己保存を実現するには、外部との交渉をしなければならない1。身体の維持には水や食料等が必須であり、また自分に襲いかかってくる動物や自然災害からは、逃れる必要があるわけだ。我々の外部には、有益なものもあれば有害なものもある。自己保存の実現のためには、前者を近づけ、後者を遠ざけることが、必要になるわけだ。
だが、自己保存の実現は容易なことではない。我々は、自己の判断のもと、他のものを好き勝手に利用することができるが、他の個物も同様のことを我々に対して行ってくるからだ。そして、自然の内には、我々を凌駕する個物が無数に存在する2。我々が自然の内において持つ力は微々たるものであり、そこでは自己保存など絵空事に過ぎないのだ。
国家状態への移行
この問題を解決するには、どうすればいいだろうか。それには、人間同士が一つにまとまり、一つの方向性に向かえばいい。一人では対処できない脅威であっても、一つの判断のもと、複数の人間が労力を提供すれば、対処することができるだろう。いわば、人間同士が結合し、国家という一つの強大な個物を形成することで、他の個物に対抗するのである。こうして、単独では難しかった自己保存の実現が、可能になるわけだ3。
国家の本質
対立の原因
国家は、自己保存を実現する唯一の手段である。このことをすべての人間が認識していれば、国家内での対立は生じなかっただろう。人々は互いを、自己の利益に必要不可欠のものとして尊重しただろう4。だが、実際には国家内の対立は存在する。それはなぜだろうか。
それは、たいていの人間が、非妥当な観念を持って生きているからである5。人間は、非妥当な観念を持つ限りにおいて、感情に従属し、周囲のものに振り回される。ここにおいて、各自が一致する保証はない。それどころか、相互に憎み、相争うことにさえなるわけだ。
法律
国家を維持するためには、人々が国家の判断に服することが必要である。だが、感情に隷属する者が、国家の判断に従わないことや、他の人間に害悪を与えることは、十分にありうることだ。これを許容すれば、国家自体が瓦解するだろう。そこで、このような行為を抑制する仕組みが必要になる。
ここで利用するのが、「感情はより強力かつ反対の感情によって抑制される」という原理である6。ある者が、国家の命令に反したり、他の人間に危害を与えようとしたとしよう。この際、その行為の結果、より大きな害悪が自分に降りかかることを想起させればいいわけだ。そうすれば、その行為を思いとどませられるのである。
これを実現するには、善悪を判断する自由と、他者に危害を加える自由を、人々から奪わなくてはならない。そのうえで法律を制定し、刑罰の威嚇でもってそれを保証する。国家は、こうして確立するのだ7。
国家への姿勢
以上の分析を踏まえると、我々は国家に対してどのような態度を取るべきかがわかる。スピノザは、これを「人間の共同社会からは損害よりも便利がはるかに多く生ずる。ゆえに彼らの不法を平気で堪え、和合および友情をもたらすのに役立つことに力を至すのがより得策である(第14項)」と表現する。国家が我々に利益をもたらすのは確かだ。ならば、そこにおける不快を耐える方が適切である。それに、我々は人間精神の本性の考察と、感情の考察を終えている。これらを利用すれば、対処も容易だろう。このような結論になるわけだ。
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我々は自己の有を維持するのに我々の外部にある何ものも必要としないというようなわけにはいかぬし、また我々は我々の外部にある物と何の交渉も持たないで生活するというようなわけにもいかない。(定理一八備考) ↩
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自然の中にはそれよりもっと有力でもっと強大な他の物が存在しないようないかなる個物もない。どんな物が与えられても、その与えられた物を破壊しうるもっと有力な他の物が常に存在する。(公理) ↩
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あえて言うが、人間が自己の有を維持するためには、すべての人間がすべての点において一致すること、すなわちすべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどもにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである。(定理一八備考) ↩
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人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上常に必然的に一致する。 ↩
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人間は受動という感情に捉われる限り相互に対立的でありうる。(定理三四) ↩
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どんな感情も、それより強力でかつそれと反対の感情によってでなくては抑制されえないものであり、また各人は、他人に害悪を加えたくてももしそれによってより大なる害悪が自分に生ずる恐れがあれば、これを思いとどまるものである。(定理三七備考2) ↩
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そこでこの法則に従って社会は確立されうるのであるが、それには社会自身が各人の有する復讐する権利および善悪を判断する権利を自らに要求し、これによって社会自身が共通の生活様式の規定や法律の制定に対する実権を握るようにし、しかもその法律を、感情を抑制しえない理性によってではなく、刑罰の威い 嚇かくによって確保するようにしなければならぬ。(定理三七備考2) ↩