神の認識が最高の善
スピノザは、神の認識を最高の善としており、それを他者とともに実現すべきである、と主張する。
精神の最高の善は神の認識であり、また精神の最高の徳は神を認識することである。(定理二八)
徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。(定理三七)
この箇所だけ読めば、神秘主義的な話に見えるかもしれないが、そうではない。ここで言っていることの意味を理解するには、ここまで『エチカ』で書かれた内容を理解している必要がある。
最高の善は神の認識
神の認識が最高の善であることは、個物の考察を基礎にするとわかりやすい。
すべての個物はコナトゥスを持っており、常に自己保存を実現しようとしている。そして、これが実現するか否かは、他の個物との関係性で決まる。その時々で出会う個物に対して、適切な対応ができるかどうかが、ポイントとなるわけだ。
人間は、これを普遍概念によって実現する。我々は、ある対象と会ったとき、その対象の普遍概念を想起する。例えばそれが「○○さん」という知り合いであれば、これまで「○○さん」と出会ったときの情景なり、人づてに聞いた情報なりを、同時に想起するわけだ。このとき、それぞれの観念で相違するもの、例えば着ている服、出会った時の状況、髪型、といったものは曖昧に、体格、性格、好き嫌い、仕草といった、どの観念にも共通するもの、すなわち「○○さん」の本質は明晰に意識される。そして、この普遍概念に基づいて、何らかの対応をするのである。
対象に何度も出会い、経験を整理することで、普遍概念は対象の本質を示す、より妥当なものとなる。そして、その対象へ対応も、より適切なものとなる。我々は、多くの対象について妥当な観念を形成することで、自己保存を実現するのである。
この妥当な観念を形成すべき対象として、最も重要なのものが神である。個物について理解するには、それを取り巻く自然全体、すなわち神について理解する必要があるからだ。第一部での神の考察がなければ、第二部での人間精神の本性の考察もなかったことからも、これは明白だろう。我々が理想的な人間に到達しようとするなら、まず神を認識しなければならないのである。
有益な他者
スピノザは、この神の認識を他者と共有すべきだ、と主張する。この主張を理解するには、人間と国家の関係性について理解する必要がある。
先に見たように、人間が自己保存を実現するためには、他者と結びつき、国家状態を形成することが必要不可欠である。では、この他者の中で特に有益なのが誰かというと、それは自己の利益を追求する者である。
人間には、感情に従属する者と、自己の利益を追求する者とがいる。このうち、感情に従属している者とは、持続的な関係性を築くことが難しい。感情は、時と場合によって変化するからだ1。たとえ誰かと一時的に、怒りや悲しみ等の感情で一致できたとしても、その一致は時間が経てば消え去ってしまうだろう。一方、自己の利益を追求する者とは、持続的な関係性を築くことができる。このような者とは、互いに互いを、自己の利益の実現に必須のものとして認識しているだろう。そして、自己の利益の追求は人間の本質であり、時間経過によって変わることがない。したがって、我々は、自己の利益を追求する者と結びつくべきなのである2。自己の利益の追求は、一般的には慎むべきものだとされる。だが、実はそれは誤りなのだ。自己の利益の追求こそが、人間同士の紐帯の基礎なのである。
神の認識
我々に有益なのは、自己の利益を追求する者だが、その数は多くない。たいていの者は、感情に隷属しているだろう。この状況において、自己の利益を追求する者を増やすには、どうすればいいだろうか。それには、『エチカ』で書かれていた内容を、相手に理解させればいい。そうすれば、自己の利益を追求すべきことを、必然的な帰結として受け入れるだろう。
ここで鍵となるのが、神の認識である。これがなければ、人間精神の本性についても、感情についても、理解することができず、自己の利益を追求すべきである、という地点にもたどり着けないからだ。よって、自己の利益を追求する者を増やすには、まず神の認識を共有する必要があるのである。