個々の感情の評価
以上を踏まえた上で、個々の感情の評価に移ろう。
悲しみ
まず重要なのが、悲しみの感情には、それ自体では追求する価値がないということである1。喜びの感情は大なる完全性への移行を、悲しみの感情はより小なる完全性への移行を意味する。自己の有の維持という観点で言えば、喜びの感情こそが求められるべきものなのだ。
ただ、喜びの感情は過度になる場合がある2。例えば愛は喜びの感情を伴うものだが、それが度を超えた場合、特定の対象がずっと意識に残り、四六時中その対象について考えることになる3。こうなると、現実に起こる様々な問題に対しての、適切な対処ができなくなるだろう。また、飲酒欲や美味欲は喜びと結びついた感情であるが、これが度を超すと体を壊すことになる。このような感情は、その行為の行き着く先が、恐怖の感情を伴うものであることを想起することで、抑制できる。例えば自己が破滅した姿なり、体を壊して何もできなくなった姿なりを想起すればいいわけだ。このように、過度の喜びを抑制できる場合には、悲しみの感情にも価値があるのである。
ただし、これは悲しみそれ自体に価値があることを意味するわけではない。我々が求めるべきは、あくまでも喜びなのである。
希望・恐怖
希望および恐怖の感情は善ではありえない4。それらは悲しみの感情を含み、かつ非妥当な観念の存在を前提としているからである。我々は、すべてを必然ととらえた上で、認識の欠如を埋め、自己に利益をもたらす行為を淡々と選択し続けるべきなのである5。
謙遜・後悔
謙遜も後悔も、自己の無力さを認識することで生じる悲しみであり、よって無益である6 7。それは、自分が他の個物によって圧倒され、受動の状態に陥っていることを示すものでしかない。それは徳でもなんでもなく、自己の無力さの現れでしかないのだ。
国家的な意図
では、なぜこれらの感情は、一般に価値があるかのように思われているのだろうか。それは、民衆の統治という観点からは、これらの感情が有益だからである8。
ここまで『エチカ』で述べられてきたような内容を、民衆すべてが理解することは、まず無理である。ならば、希望、恐怖、謙遜、後悔といった感情で民衆を統治した方がよい。これらがなければ、皆が高慢で、無恥で、何ごとも恐れずに行為することになるだろう。そしてそれは、国家の崩壊をもたらすだろう。よって、たとえそれが理性にかなったものでなくても、民衆をこれらの感情に従わせたほうが、まだましなのである。ただ、ここまで『エチカ』を理解してきた我々としては、それにとらわれる必要は特にないわけだ。
無知に起因する感情
国家的な観点からも、自己の有の維持という観点からも、無用な感情が存在する。それが買いかぶり・見下し・高慢・自卑といった、無知に根ざす感情だ。この中でも最悪なのが高慢である9。この感情は、自己についての無知に起因するが、自己について無知なものは、自己にとって何が有益かを判断することが決してできない。さらに、これは自卑とは違い、喜びの感情と結びついているため、修正することが難しい。そして高慢な者は、偽りの観念を維持するために追従者を求める。さらに、自分を正当に評価する人間を憎むことになる。この点で、国家的にも厄介者になってしまうのである。
憐憫
憐憫の感情は、国家の紐帯とされることがあるが、これは誤っている。人間同士の紐帯となるのは、各人が自己の有の維持を追求することにある。自己の利益を追求すれば、他の人間の利益も追求せざるを得ないということが、国家の基礎にあるわけだ。
そして、憐憫の感情は悲しみの感情の一種であり、それ自体に価値があるものではない。この感情は、妥当な観念を持つものにとっては不要なのである。それに、憐憫の感情に従ってなされた行為が、適切なものになる保証もない。憐憫の情は、相手が悪人であろうと、その涙が偽りであろうと、同様に引き起こされるものだからだ10。
それでも感情は必要ではという意見への反論
スピノザは受動の感情が不要だと言ってるが、このように言ってしまうと、「そうはいっても感情が必要な場合があるのではないか、例えば目の前の人が悲しんでいる時には、一緒に悲しんであげることが必要なのではないか」といった反論が浮かぶかもしれない。スピノザはこのような反論についてもあらかじめ予期しており、これについての答えを用意している。それが以下だ。
我々は受動という感情によって決定されるすべての活動へ、その感情なしにも理性によって決定されることができる。(定理五九)
要は、特定の感情を持ってなくても、その感情を持っている振りはできるだろうと言うわけだ。日々の生活において、憐憫なり、謙遜なり、後悔なりの感情を求められることがあるかもしれない。だったら、単純に憐憫を持っている振り、謙遜をしている振り、後悔をしている振りをしたらいいだけじゃないか、実際にその感情にとらわれる必要性などないだろう、というわけだ。
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喜びは直接的には悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である。(定理四一) ↩
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愛および欲望は過度になりうる。(定理四四) ↩
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すなわち我々が日々捉われる諸感情は、もっぱら身体の何らかの部分がその他の部分以上に刺激されるのに関係するのであり、したがってそうした感情は一般に過度になり、精神をただ一つの対象の考察に引きとどめて精神が他のことについて思考しえないようにするのである。(定理四四備考) ↩
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希望および恐怖の感情はそれ自体では善でありえない。(定理四七) ↩
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だから我々が理性の導きに従って生活することにより多くつとめるにつれて我々は希望にあまり依存しないように、また恐怖から解放されるように、またできるだけ運命を支配し・我々の行動を理性の確実な指示に従って律するようにそれだけ多く努める。(定理四七備考) ↩
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謙遜は徳ではない。すなわち理性からは生じない。(定理五三) ↩
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後悔は徳ではない。すなわち理性からは生じない。(定理五四) ↩
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人間は理性の指図に従って生活することが稀であるから、この二感情すなわち謙遜と後悔、なおそのほかに希望と恐怖もまた、害悪よりもむしろ利益をもたらす。したがってもしいつかあやまちを犯さなければならないとすればこの方面であやまちを犯すがよい。なぜなら、もし精神の無力な人間がみな一様に高慢で、何ごとにも恥じず、また何ごとをも恐れなかったとすれば、いかにして彼らは社会的紐帯によって結合され統一されえようか。民衆は恐れを知らない時に恐るべきものである。(定理五四備考) ↩
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最大の高慢あるいは最大の自卑は精神の最大の無能力を表示する。(定理五六) ↩
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一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に価する何ものも見いださないであろうし、また何びとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳が及ぶ限り、いわゆる正しく行ないて自ら楽しむことに努めるであろう。これに加えて、容易に憐憫の感情を催し他人の不幸や涙に動かされる者は、のちにいたって自ら悔いるような行ないをしばしばなしているのである。なぜなら我々は、感情に基づいては、善であると我々の確知するような何ごとをもなすものでなく、また我々は偽わりの涙に容易に欺かれるからである。 ↩