感情に対する理性の力

第四部では、理性1が感情に対して持つ力には限界があることが証明された。第五部ではそれを受け、妥当な観念が感情に対して持つ効力と、その利点について考察されることになる。

効力

妥当な観念が感情に対して持つ効力は、大きく二つにわけることができる。
一つが、感情それ自体について明晰判明な観念を持つことである2。自身の抱いている感情が何で、それがどういう仕方で生じたのかを明晰判明に把握したのなら、受動の感情に振り回されることもなくなるわけだ。例えば高慢な人間が、自身のとらわれている感情の正体に気づけば、その感情はもはや高慢とは別のものになるのである3

もうひとつが、外部の原因(causa externa)について明晰判明な観念を持つことである4。我々が特定の対象に感情を揺さぶられるのは、その対象について持つ観念が非妥当なことによる。我々は、自由だと思う対象には感情を揺さぶられても、必然的に起こったことについては感情を揺さぶられないのだ。

利点

妥当な観念は、非妥当な観念に比して三つの利点がある。
一つが持続性である5。非妥当な観念は偶然的であり、それを否定する表象が想起されやすい。一方、妥当な観念は必然的であり、それを否定する表象を想起することがない。例えば、「太陽が東からのぼる」という観念を否定する経験は、地上にいる限りすることがないわけだ。一度妥当な観念を認識したならば、それは忘却されることもなく、ずっと残り続けるのである。

二つ目の利点が、想起する機会が多いことである6。これは、妥当な観念が、個々の観念の比較によって形成されることに起因する。例えば我々は、太陽が東からのぼる様を何度も見ることで、「太陽が東からのぼる」という妥当な観念を形成する。そしてこの妥当な観念は、新しい朝が来るたびに、新たに想起されるわけである。そして、何度も想起すればするだけ、その観念は強力なものになるわけだ。

三つ目の利点が、個々の観念から連想する機会が多いことである7。妥当な観念は想起される機会が多いため、別の観念と結びつく機会も多い。例えば「太陽が東からのぼる」という妥当な観念は、明け方の風景なり、朝方に出会う人なりといった、また別の観念と結びつくわけだ。そして、明け方の風景なり、朝方に出会う人なりを何かの機会に想起すれば、そこから連想して「太陽が東からのぼる」という観念も想起することになるのである。


  1. 理性(ratio)は妥当な観念による認識を指す。理性については第二部定理四〇備考二で次のように定義されている。「最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この部の定理三八の系、定理三九およびその系ならびに定理四〇を見よ)。そしてこれを私は理性あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。」 

  2. ゆえに我々が特につとめなければならぬのは、おのおのの感情をできるだけ明瞭判然と認識し、このようにして精神が、感情から離れて、自らの明瞭判然と知覚するもの・そして自らのまったく満足するものに認識を向けるようにすることである。つまり感情そのものを外部の原因の認識から分離して真の認識と結合させるようにすることである。(定理四備考) 

  3. 例えば、前に示したように、人間はその本性上他の人々が己れの意向通りに生活することを欲求するものであるが(第三部定理三一の備考を見よ)、この衝動は、理性によって導かれない人間にあっては受動であって、この受動は名誉欲と呼ばれ、高慢とあまり違わないのであり、これに反して理性の指図によって生活する人間にあってはそれは能動ないし徳であって、これは道義心と呼ばれる(第四部定理三七の備考一およびその定理の第二の証明を見よ)。このようにしてすべての衝動ないし欲望は非妥当な観念から生ずる限りにおいてのみ受動であり、その同じ衝動ないし欲望が妥当な観念によって喚起されあるいは生じさせられる時には徳に数えられるのである。(定理四備考) 

  4. もし我々が、精神の動きあるいは感情を外部の原因の認識から分離して他の認識と結合するならば、外部の原因に対する愛あるいは憎しみ、ならびにそうした感情から生ずる精神の動揺は破壊されるであろう。(定理二) 

  5. 理性から生じあるいは理性によって喚起される感情は、時間という点から見れば、不在として観想される個物に関する感情よりも強力である。(定理七) 

  6. 表象像はより多くの物に関係するに従ってそれだけ頻繁である。言いかえればそれだけ繁く現われる。そしてそれだけ多く精神を占有する。(定理一一) 

  7. 身体の変状を正しく秩序づけ・連結するこの力によって我々は、容易に悪しき感情に刺激されないようにすることができる。なぜなら(この部の定理七により)知性と一致した秩序に従って秩序づけられ・連結された感情を阻止するには、不確実で漠然たる感情を阻止するよりもいっそう大なる力を要するからである。(定理一〇備考) 

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