精神の永遠性
ここまでの『エチカ』の内容は、観念の分析、感情論、国家論といったように、実践的なものだった。実生活において出会いうる困難を想定した上で、そこでの使用に耐えうる倫理学を作ることが、スピノザの目的だったわけだ。だが、第五部後半からは、精神の永遠性や神の愛といった、これまでとは方向性のずれる内容が考察されることになる。
スピノザが本来の意図から外れる考察を試みたのは、「スピノザは無神論者である」という批判に反論するためである。スピノザは、自分は既存の宗教の核心部分は否定していない、むしろ自分ほど神について考えている者はいないし、精神の永遠性や神の愛についても誰よりもずっとうまく説明できる、自分が否定しているのは人を食い物にしている迷信家だけだ、と思っているのだ。
この箇所は、扱っている題材から、一見神秘的な内容に見えるかもしれない。だがそれは見せかけだけだ。ここでは、第一部から積み上げてきた理論を数多く利用した、非常に緻密な議論をしている。これまでの過程を正確に把握していない限り、この箇所を理解することはまず不可能だろう。
精神の永遠性
精神の永遠性の理論は、
- 永遠性は時間と無関係
- 我々は既に永遠の認識を持っている
の二つを前提とする。
永遠性と時間とが無関係であることは、特に難しい話ではない。例えば、我々が永遠の真理や、永遠の愛、永遠の友情について語る時、過去、現在、未来といった時間の表象と一々関係させているかと言えば、いないわけだ。これらを否定する表象を想起できるか否かを試し、それができないことをもって、それを永遠と呼んでいるはずである。永遠という言葉は、実際には必然と同じものを指すのだ1 2。
このように考えれば、我々はすでに永遠の認識を持っていることがわかる。神について認識した過程を思い出そう3。我々は、普段は犬、猫、人間、植物、椅子、机といった様態を意識している。ここにおいては、物を一定の時間および場所に関係するものとしてとらえている。だがある時、それらの個々の様態が、延長、形、運動といった共通する属性を持つことに気づき、そこから神という実体の認識に至る。ここにおいては、物を神の中に含まれる、神の本性から必然的に生じるものとしてとらえているわけだ。我々は、いわば「物を一定の時間および場所に関係するものとしてとらえる認識」と「物を神の中に含まれる、神の本性から必然的に生じるものとしてとらえる認識」の二通りの認識を持つわけである4。スピノザは後者を、永遠の相のもと(sub specie aeternitatis)での認識と呼ぶ。永遠の相のもとでの認識においては、自身も神の内にあるものとして、すなわち永遠のものとしてとらえている。我々が感じる精神の永遠性は、この認識に起因するというのがスピノザの主張だ5。
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永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。(第一部定義八) ↩
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また永遠性は時間によって規定されえず、時間とは何の関係も有しえないからである。(定理二三備考) ↩
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物は我々によって二様の仕方で現実として考えられる。すなわち我々は物を一定の時間および場所に関係して存在するとして考えるか、それとも物を神の中に含まれ、神の本性の必然性から生ずるとして考えるかそのどちらかである。ところでこの第二の仕方で真あるいは実在として考えられるすべての物を我々は永遠の相のもとに考えているのであり、そしてそうした物の観念の中には、第二部定理四五で示したように(なおその備考も見よ)、神の永遠・無限なる本質が含まれているのである。(定理二九備考) ↩
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このように、我々が身体以前に存在したということを我々は想起しないけれども、しかし我々の精神が身体の本質を永遠の相のもとに含む限りにおいてそれは永遠であるということ、そして精神のこの存在は時間によって規定されえず持続によって説明されえないということ、そうしたことを我々は感ずる。(定理二三備考) ↩