ライプニッツ
デカルトの理論には欠点があった。それは、精神を一つしか想定していないことである。精神を保持する人間は世界には多数存在する。それなのに、デカルトは「神、精神、物体」の三つの相互関係しか考察していないのだ。
だが、精神を複数認めてしまうと、いくつもの難問に突き当たることになる。例えば、個々の人間は、それぞれ独自の原理で動いているのに互いに影響しあっている。このことはどう説明されるのか。また、死後の世界についての説明が必要になる。人間は日々多数死んでいく。それが死後も残るとしたら、世界は精神で溢れてしまうのではないだろうか。それに、人間は多数生まれるが、それはどこから生じるのだろう。無から作られるのか、それとも別の場所から来るのだろうか。また、植物や動物にも精神の存在を認めていいのだろうか。認めるとして、それと人間精神との間に相違はあるのだろうか。
ライプニッツは、これをモナド論によって解決しようとする。
モナド論
ライプニッツは、自然を形成しているのは生命であると主張する。例えば、一滴の水があるとしよう。それは一見、何も含まれていないように見えるかもしれない。だが、顕微鏡でのぞけば、そこには無数の生物を見出すことができるだろう。その生物の一つを、より精度の高い顕微鏡でのぞいたとするならば、さらにそこにも無数の生物を見いだせるはずだ。世界は機械的で味気ない法則のみで成り立っているのではない。世界は生命で満ち溢れているのである1。
そうして最小の物質を辿っていった後、最後に行き着くのがモナドだ。それは神によって創造された、精神の核である。動物、植物、そして人間は、その核となるモナドが他のモナドを階層的に支配することで成り立っているのだ2。
認識論
ライプニッツは、認識についてもモナド論の枠組みで説明しようとする。モナドの中には、表象と欲求とが存在する。これは、物理法則に還元することができないものだ。実際、我々はものを自由に考えることができるし、そもそも表象のような微細なものが物理的に説明できるわけがないだろう、と言うわけだ3。
だが、これだと当然色々な問題が生じることになる。まず、外的に存在する事物の説明が困難になる。我々は、話しかけてくる他者、吹き付ける冷たい風、知らない内容について書かれた本といった表象を持つ。これらは、モナドである私にどのようにして入り込むのであろうか。また、各自が独立したモナドなのであれば、各自に共通する認識というのも成立しなくなるのではないか。
そこでライプニッツが持ち出すのが、予定調和である4。神はモナドを創造する際に、上の問題をうまく解決するよう、あらかじめ調整を施した。このため、モナドの内にある表象は、相互作用を考慮し、共通認識を兼ね備えた、現実世界を反映したものになっているというわけだ。
モナド論の利点
モナド論には、私が私であるという、確固たる根拠ができるという利点がある。人間身体は多数の物質によって構成されており、その構成物は日々入れ替わる。機械的な物理法則しか認めないのであれば、これが確固たる私だ、ということが言えないわけだ。だが、モナド論であれば、根底にあるモナドを指し示して、これが私だと主張できるのである。
また、死についての説明も可能になる。モナドは死滅することがない。ただ、表象の明晰さがその時々で変化するだけである。例えば我々は、寝起き時や酩酊時には、普段よりも曖昧な表象しか持たないわけだ。それが極端に曖昧になった状態が死であり、それは深い眠りについた状態と同じようなものであろう5。
さらに、人間以外の動物、植物が持つ精神についても説明が可能になる。デカルトは、人間にしか精神の存在を認めなかった。一方ライプニッツは、それらも人間と同じくモナドであるが、表象の明晰さの度合いで劣っているだけだと主張できるのである6。
モナド論の弱点
モナド論の弱点は、予定調和があまりにも都合が良すぎることだ。ライプニッツは単に、よくわからない問題を神に投げて解決しているだけでしかない。モナド論は、空想家が頭の中で作り出した一つの世界観として見れば面白いかもしれないが、真面目に考察する価値があるものではない。
これは、ライプニッツの能力の問題というよりは、そもそも精神に実体性を認めることに無理があるからだと思う。デカルトが精神の複数性という課題には踏み込まなかったのは、踏み込めばどうしても、ライプニッツのような荒唐無稽な説明になってしまうことを知っていたからではないかと思う。
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物質の各部分は、植物が一面に生えている庭や、魚がいっぱいいる池のようなものと考えることができる。とはいえ、その植物の枝や、動物の肢体や、その体液の滴の一つ一つが、やはりそのような庭であり池なのである。(『モナドロジー』67) ↩
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そこから、どの生きた身体にもそれを支配するエンテレケイアがあり、動物ではそれが魂であることがわかる。さて、この生きた身体の肢体には、他の生命体、植物、動物が充ちていて、その各々がまた、それを支配するエンテレケイアもしくは魂をもっている。(『モナドロジー』70) ↩
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なお、表象も表象に依存するものも、機械的理由では説明できない、すなわち形と運動で説明できないことは、認めないわけにはいかない。(『モナドロジー』17) ↩
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魂は目的因の法則に従い、欲求、目的、手段によって作用する。物体は、動力因の法則すなわち運動の法則に従って作用する。しかもこの二つの領域、動力因の領域と目的因の領域とは互いに調和している。(『モナドロジー』79) ↩
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だが微小表象がきわめて多くあっても識別される表象がなければ、人は茫然自失の状態にある。同じ方向に続けざまに何回もまわると、目が回って気が遠くなり物事の識別がつかなくなるようなものだ。死はこの状態をしばしのあいだ、動物に与えることがある。(『モナドロジー』21) ↩
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だから私は次のように判断した。動物が決して自然的に生じないならば、自然的に滅びることもない。全面的な発生もないばかりか、全面的な壊滅もなく、厳密な意味での死もない、と。(『モナドロジー』76) ↩