ロック

デカルトの二元論を前提

スピノザ、ライプニッツはデカルトと同じ次元での話をしていた。これとは別に、デカルトの前提を受け入れた上で、人間の認識について扱おうという哲学者が出てくる。それがロックだ。
ロック自身は、自分は心の物理的考察には立ち入らないとしている。ただ、実際にはデカルトの二元論を前提としており、精神と物体の二つを観念の源泉として措定している。外なる物質的事物と、内なる心の作用の二つが存在し、それらがそれぞれ、私の心へ観念を与える。物質的事物による観念は、「黄、白、熱い、冷たい、柔らかい、堅い、苦い、甘い」など。心の作用による観念は、「知覚、考えること、疑うこと、信ずること、推理すること、知ること、意志すること」など。これらを起源として、他の諸々の観念が生まれる。
したがって、諸々の観念が構成される様を見れば、どの観念が根拠のないもので、どの観念が真なるものかがわかるようになるはずだ。そして、人々の唱えている説のどれがただの臆見であり、どれが確実な真理かを判別できるようになるだろう。これがロックの意図だ1。内容としては、デカルトの理論を認識論に応用したらそうなるだろう、というものでしかなく、読んで特に面白いものではない。

生得観念

ロックは生得観念に関する話もしている。生得観念の話自体は、今更考察する価値もない歴史的なものである。それに、ロックも当時話題になってる議論だったから言及したというだけであり、本筋とはあまり関係がない。だが、教科書でロックの思想として取り上げられる「経験論」「タブラ・ラサ」はこの箇所に由来している。少し見てみよう。
生得観念とは、経験によらない観念のことである。正義、真、神、といった観念がその例として挙げられる。生得観念の実在を信じるものは、次のように主張する。それらは、経験的に教えられる観念ではない。なのに、それらの観念が意味するところについて、すべての人が知っている。かつそれは、民族や宗教といった相違を超えて、すべての人類に共通しているように見える。よってそれは、生まれる以前から持っている観念なのだろう。

ロックによる批判

ロックは、生得観念があると主張する者にたいして、「そんなものがあるわけがないじゃないか」という議論をする。
まず、そもそも全人類が普遍的に同意するような原理など一つもない、と批判する。その例として、「有るものはすべて、有る」「或る事物が同時に有りかつ有らぬことは不可能である」という原理について取り上げる2

さらに、道徳的な生得観念については

  • 悪いやつなんてそこらにいるし、正義や信義といったものが普遍的であるわけがない
  • そもそも、それらが普遍的ならば、それが存在するかどうかが問題になるわけがない

として否定する。
他に、民族によっては神の観念すら認められない場合があるのだから、生得観念なんてあるわけないだろ、という議論もする。

ライプニッツの批判

生得観念の存在を肯定するものが、ロックに対してどう反論するのかを見てみよう。
ライプニッツは、ロックの『人間悟性論』に対して『人間悟性新論』を出して対抗した。この本は対話篇になっており、ロックの立場に立つフィラレートと、ライプニッツの立場に立つテオフィルが議論をするという構成になっている。
ロックの批判に対して、ライプニッツを代弁するテオフィルは次のように回答する。

  • 「有るものはすべて、有る」「或る事物が同時に有りかつ有らぬことは不可能である」といった真理について一致してない人もいるではないか→もちろんそのような人はいる。しかし生得観念は存在する
  • 生得観念が明確に刻まれているはずの子供に、それが認められないのはおかしくないか→生得観念は、子供においてすぐに認められるようなものではない。しかし生得観念は存在する
  • 実践的な生得観念はどうなるのか。盗賊などが道徳法則を持っているとは思えない→そいつらは生得観念を持っているが、常にそれを意識しているわけではない

このように、官僚答弁じみたことしか言わない。
ロックを代弁するフィラレートが、「その議論の仕方なら何でも言えますよね」と指摘したのに対する、テオフィルの返答が傑作だ。

フィラレート「でももしそんな反論が正しいとしたら、それは普遍的同意に基づいた証明というものを無にしてしまいますよ。多くの人々の推論は次のようになってしまいます。即ち、良識を持った人々が容認する原理は本有的である、私たちと私たちの味方は良識を持った人々である、それ故私たちの原理は本有的である、と。馬鹿げた推論の仕方ですよねえ。無謬性へと直結してしまいます。」
テオフィル「私はと言えば、普遍的同意を主要な論拠にはせず、確認のために用いています。(中略)それに、教養のある人々は野蛮人たちに比べて良識をより良く用いていると言われるだけの理由があるように私には思えます。なぜって、教養のある人々は野蛮人をまるで獣のように簡単に征服してしまうことによって十分にその優越性を示しているのです。」

ライプニッツは、「自分たちは野蛮人を叩きのめす暴力を持ってるから正しいんだ」以外の答えを持ち合わせていないのである。

経験論とタブラ・ラサ

ロックは生得観念を否定し、すべてが経験に起因すると主張した。かつ、そのようにして経験が刻まれる精神を、白板(タブラ・ラサ)に例えた。ロックを経験論者と呼び、その思想をタブラ・ラサで表すのはこれに由来する。
しかし、そもそも生得観念はロックの中心的な課題ではない。それに、無理なことを言っている生得観念論者に言及して「それは無理だよ」と示しただけであり、新しい思想を提示したわけでもない。ロックの思想は「経験論」と「タブラ・ラサ」で代表させられるものではないのだ。

大陸合理論とイギリス経験論は嘘

哲学の教科書において、大陸合理論とイギリス経験論という言葉が出てくる。いわく、一方にデカルト、スピノザ、ライプニッツという大陸合理論があり、他方にロック、バークリー、ヒュームというイギリス経験論がある。この二つの別々の潮流を、カントが統合した、というように。
大陸合理論とイギリス経験論という区分は、実際には存在しないものだ。
まず、ロックはデカルトと並列する哲学者ではない。デカルトの二元論を受け継ぎ、それを認識論に応用したのがロックだからだ。いわば、ロックはデカルトの弟子なのである。大陸合理論とイギリス経験論というように、並び立つ独自の二つの思想があったわけではないのである。
また、上で見たように、ロックの理論を経験論と呼ぶのは不適切である。イギリス経験論というのは、内容のない言葉なのだ。それに、ロック、バークリー、ヒュームというくくりの正当性も怪しい。後に考察するが、バークリーとヒュームをロックの発展と見ることには無理がある。
ではなぜ、大陸合理論とイギリス経験論という区分が教科書に載っているかというと、「カントが近世哲学を総括した」という主張を正当化するため、カント学者が事実を捻じ曲げたからである。カントの妥当性については、後に考察しよう。


  1. それゆえ私の目的は、人間の知識の起源と確実性と範囲を研究し、あわせて信念・意見・同意の根拠と程度を研究することにある。今回は、精神の物理的な考察には立ち入らない。すなわち、「精神の本質はどこにあるか」「身体器官に由来する感覚を持ったり、知性の内に観念を持ったりするのは、精神のどの運動、あるいは身体のどの変化によるか」「観念の形成は、一部または全てが物体に依存するか」といった検討に煩わされたりはしない。(『人間知性論』第1巻第1章2節) 

  2. 大げさな証明原理の内から、「あるものはある」「あるものが同時に存在し、かつ存在しないことは不可能である」を例に取ろう。これらは取り分け、生得の資格を最大に許されるものだと私は思う。これらは普遍的な原理として確立した評価を持っており、これについて疑問にする者がいれば、たしかに奇妙に感じるはずだ。だが、率直に言うが、これらの定理は普遍的に同意されるどころではない。大多数の人類はこの定理を知らないのである。(『人間知性論』第1巻第2章4節) 

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