バークリー
ロックの物体批判が目的
ロックはデカルトの理論を受け継いでおり、物体の存在を認めている。だが、この理論的背景を知らずに、ロックを批判しようとした哲学者がいる。それがバークリーだ。バークリーは、ロックの物体をスコラの残滓として捉える。かつてスコラ学者が内実のない言葉を弄んでいたのと同様、ロックの物体も内実のない言葉に過ぎないと、批判するわけだ1。
存在することは知覚されることである
ロックの物体が無内容であることを、バークリーは以下のようにして証明する。
ロックは、物体という、精神とは全く別のものが存在すると主張する。だが、精神と切り離されたとき、存在という言葉は意味を失うのではないだろうか。例えば「机は存在する」と言うとしよう。このとき、机と同時に、それを知覚している何者かについても意識しているはずだ2。あるものが、誰にも知覚されずに存在する事態を思い浮かべることは、不可能である。存在することは知覚されること(esse est percipi)であり、よって精神とは全く別物で、知覚もされない物体は存在しないのである3。
バークリーの誤り
ロックの物体が、デカルトの理論を前提としていることを知っている者であれば、バークリーの批判が的外れであることに気づくはずだ。デカルトは、我の存在が疑えないことと、我の本質が精神であることを証明したあとは、精神によって捉えられるものについてしか語っていない。デカルトとデカルト主義者にとって、認識が必ず観念を介することは当然なのである4。「存在することは知覚されることである」は何の批判にもなっていない。これはただの出発点であり、重要なのはこの先なのである。
デカルトは、我が原因ではないかのように見える観念を、自分が持っていることに気づく。例えば喧騒を聞き、太陽を見、火を感じることは、私の自由にならない。それどころか、私の意志に反してそれらの観念が生じることさえある。デカルトは、これらの観念の原因を考察することで、神と物体の存在を認めることになる。ロックが物体の存在を認めるのは、これが理由なのだ。
私の意志に反して生じる観念があることは、バークリーも認める5。だが、バークリーは神のみがその原因であるとする6。その理由は特に述べない。ただ、神が原因に決まっている、物体を原因とするのは馬鹿げている、と主張するだけだ7。デカルトと比較すればわかることだが、はっきり言ってバークリーは話にならないのである。
バークリーの限界
バークリーは、ロックの著作を読んではいるが、それを理解するための前提知識に欠けている。やったことは、ロックを雑に理解し、雑に批判したことでしかない。後世の哲学者が、バークリーに言及しているという点で、哲学史的には読む意味があるのかもしれないが、それ以上のものではないだろう。
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きわめて鋭敏な哲学者たちは、物質的実体ということで何を意味しているのかが分かっていると公言する。しかし、彼らの意味するところを調べてみると、彼らがこれらの音に結びつけているのは、存在者一般の観念と、それが偶有性を支えるという相対的な概念でしかないと彼ら自身が認めているのが分かるだろう。存在者という一般的観念は私にとって、あらゆる一般的観念のうちでもっとも抽象的で理解不可能であるように思われる。(中略)したがって私は、物質的実体という言葉が表示しているこれら二つの部分ないし分枝を考えてみると、これらにはいかなる明確な意味も結びついていないと確信する。(『人知原理論』第一部17) ↩
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「私がこれを書いている机は存在する」と私は言う。すなわち、私はこの机を見るし、これに触る。そして、もし私が書斎のそとにいるとしても、私は「それは存在する」と言うだろう。この発言によって私が意味しているのは、「もし私が書斎にいるなら、私はそれを知覚するだろう」あるいは「何か他の心が実際に知覚している」ということである。(『人知原理論』第一部3) ↩
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真理のなかには、きわめて身近で明白であるがゆえに、目を開きさえすれば見てとれるものがある。つまり、天界の聖歌隊や地上の備品のすべて、一言で言えば、世界という巨大な構造体を構成しているすべての物体は、精神なしには存在できない。それらが存在することは、知覚される、あるいは知られるということである。(『人知原理論』第一部6) ↩
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例えば『哲学原理』第一部11節には以下の記述がある。「ところで他のいかなるものにおいてよりも、我々の精神においてこそ、多くのものが認められることは、次のことから明らかである、即ち、我々が何か他のものを認識するとき、これによっていっそう確実に、我々の精神の認識に導かれないことはないからである。」 ↩
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なるほど私は自分自身の思考を制御する力をもってはいるものの、しかし、この力がどれほどのものであれ、感官によって現に知覚されている観念は、思考のように私の意志に依存しているわけではない。昼日目を開けるとき、私は見るか見ないかを選択するわけにはいかないし、私の視界にどんな個別的な対象が飛び込んでくるかを決める力ももっていない。聴覚や他の感官についても同様であって、感官に刻印される観念は私の意志の産物ではない。したがって、これらの観念を生みだす何らかの他の意志あるいは心が存在する。(『人知原理論』第一部29) ↩
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感官の観念は想像力の観念よりも強力で生き生きとしており判明である。さらには、より多くの堅固さ、秩序そして一貫性を備えている。つまり、人間の意志の結果である観念がしばしばそうであるようにでたらめに引き起こされるのではなく、規則正しい連結や系列をなして引き起こされる。こうした系列の驚くべき配置は、その創造者の知恵と善意をあますところなく立証する。(『人知原理論』第一部30) ↩
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しかしながら、この首尾一貫した斉一な作品は、これを支配し自然法則を定めようと欲した心の善性と知恵をこれほど明らかに示しているにもかかわらず、われわれの思考はこの心へ向かうのではなく、むしろ第二原因を探し求めて彷徨してしまう。(中略)しかし、これほどに馬鹿げていて不可解なことはない。(第一部『人知原理論』32) ↩