懐疑が生じる理由

したがって、「どうすれば真の観念を持つことができるか」という問いには意味がない。ここで問うべきは、「我々は真の観念を持っているのに、なぜ懐疑に囚われるのか」についてなのである。
懐疑が生じるのは、断片的な知識しか持っていないからである、というのがスピノザの主張だ。例えば、外界から閉ざされた村に住む少年がいたとしよう。そして、生まれてこのかた、太陽の大きさについて疑ったことがなかったとしよう。この少年がある日、街から来た学生に「実は太陽は、地球の大きさよりもずっと大きいんだよ」と言われたとする。するとこの少年は、次に太陽を見たときに、「私には太陽は小さく見えているが、これは間違いなのかもしれない」「でもあの学生が嘘をついた可能性もあるな」「いやしかし…」と揺れ動くことになる。このような、どちらが正しいとも決めきれない宙吊りの状態が、懐疑なのである。
では、この少年を懐疑から解放するには、どうすればいいだろうか。答えは簡単で、学校に通わせればいいのである。この少年が授業を受け、認識の仕組みなり、天体なりの知識を得れば、太陽の大きさについての懐疑から解放されるわけだ1

これを別の観点で見てみよう。この少年は、街から来た学生と出会う以前に学校に通っていれば、懐疑に陥ることもなかったのではないだろうか。十分な知識を得た状態であれば、街から来た学生に生半可な知識を吹き込まれても、適当にあしらって終わっただろう。この少年は、物事を適切な順序で習っていないために、懐疑に陥ったのである。
懐疑とは、知識の不足によって生じる動揺に過ぎない。太陽の大きさに限らず、より多くのことについてあらかじめ学んでいれば、懐疑に陥ることも少なくなるわけだ2 3。重要なのは、物事を適切な順序で学ぶことなのである4。そしてこれは、偶然的に起こることではない。あらかじめ、物事を理解し、それを適切な順序で教えようという教師がいて、はじめてできることなのだ。スピノザが『知性改善論』を書くのは、この教師の役目を担うためなのである5


  1. そういうわけで、田舎者たちは太陽が地球よりもはるかに大きいと聞くと誰彼なく驚くのだが、とはいえ疑いは諸感官のもたらす過誤について思考することによってこそ生じるのである。つまり、ひとは、諸感官がときおり彼を欺いたことを知る。しかし、このことをもっぱら混然とした仕方でのみ知るにすぎない。そのひとは、いかにして諸感官が過誤をもたらすのかを知らないからである。そして、或るひとが疑いをもったあとで、諸感官についての真の認識を得て、また遠くに離れたものどもが諸感官という手立てを介していかに現れてくるかを認識するなら、疑いはあらためて取り去られることになる。(第78節) 

  2. 次に、精神はより多くのことを知れば知るほど、それだけよりよく自らの諸力ならびに自然の順序を理解する。他方で、精神は自らの諸力をよりよく理解すればするほど、それだけより容易に自己自身を導くことができ、またより容易に自らに対して諸規則を定めることができる。さらに、精神は自然の順序をよりよく理解すればするほど、それだけより容易に無益なことにかかずらうことのないようにすることができる。(第40節) 

  3. 加えて、もし或るひとが、先立って探究されるべきことどもを探究することによって、ものどもの連鎖が何ら断ち切られないようにしつつ正しくまっすぐに進んでいき、かつ、諸問題を解くことによって認識することに取りかかるまえにそれらの問題をいかに定式化すべきかを知るなら、そのひとはきわめて確実な諸観念、すなわち明晰かつ判然とした諸観念以外の何ものも手にしないであろう。というのも、疑いとはあることがらにかんする肯定または否定をめぐって心が宙づりになっている状態にほかならないが、その肯定または否定は、それを知らなければそのことがらについての認識が不完全なものにならざるをえない何かが見出されなかったとしたら、なされていただろうから。ここから、疑いはつねにものどもが順序を踏まえずに探究されることに起因する、と結論づけられる。(第80節) 

  4. そういうわけで、真理はいかなるしるしをも必要とせず、むしろあらゆる疑いが取り去られるには、諸々のものの対象的本質を、あるいは同じことだが、それらのものどもについての観念を有するだけで十分なのだから、ここから、真の方法は諸々の観念を獲得したあとに真理のしるしを探究することに存するのではなく、むしろ真理そのもの、あるいは諸々のものの対象的本質、あるいはそれらのものどもについての観念が(これらはすべて同じものを意味する)しかるべき順序で探究される途こそが真の方法である、ということが帰結する。(第36節) 

  5. もし誰かが自然を探究しているときに、一種のめぐりあわせによって、与えられた真の観念の規範にのっとって他の諸観念をしかるべき順序で獲得しつつ進んでいたとすれば、真理は私たちが示したように自己自身をあらわにするのだから、そのひとは決して自らの有する真理について疑わなかっただろうし、またすべてがひとりでにそのひとに流れ込んできたであろう。けれども、こうした事態は決して起こらないか、あるいは起こるとしてもまれなことなので、だからこそ私は、めぐりあわせによってはなしえないことがらを、それでもなおあらかじめ練り上げられた企図のもとで私たちが獲得するように、と同時に、真理と正しい推論を立証するにさいして、私たちが真理自身と正しい推論以外のいかなる道具も要しないということが明らかになるように、以上のような論を立てざるをえなかったのである。(第44節) 

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