神の本性の考察からはじめる理由
懐疑とは、知識の不足によって生じる動揺に過ぎず、それ自体としては無意味である。したがって、懐疑論者が行うような、あらゆるものについての懐疑は、論外だということになる。人々を懐疑から解放する目的からすれば、こういった懐疑をまず潰す必要があるわけだ。
では、このような懐疑から人々を解放するには、どうすればいいだろうか。これを考える上でスピノザが参考にするのが、デカルトが『省察』で行った普遍懐疑である。
第一省察でデカルトは、「2+3=5」のような数学的真理をも疑った1。デカルトがこのような疑いを抱いたのは、神について明晰判明な観念を持っていなかったからである。神について不明瞭な観念しか持っていなかったために、「神がもしかしたら私を欺くかもしれない」と考え、数学的真理についても疑ったのだ。これは、神についての明晰判明な観念をあらかじめ持っていれば、デカルトは懐疑に陥らなかったことを意味する2。実際、神の本性について明晰判明な観念を持ったあと、デカルトは欺く神の想定を退けることになるのである3。
したがって、懐疑論者の知性を改善する、という目的のためには、まず神について考察する必要があるわけだ。スピノザが、神の本性の考察からはじめるべきだと言ったのは、これが理由なのである4。
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私は、他の人々が、自分ではきわめて完全に知っているつもりの事がらにおいてまちがっている、と思うことがときどきあるが、それと同じように、私が二に三を加えるたびごとに、あるいは、四角形の辺を数えるたびごとに、あるいは、ほかにもっと容易なことが考えられるならばそれをするたびごとに、私が誤るように、この神は仕向けたのではあるまいか。(第一省察) ↩
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ここから帰結するのは、このうえなく確実なことがらにおいてさえ私たちに過誤を犯させる何らかの欺く神がひょっとすると実在するかもしれないという口実のもとで、真の諸観念を疑いうるのは、私たちが明晰かつ判然とした観念を何らもたないあいだにかぎるということである。(第79節) ↩
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けれども、いまや私は神があることを知っている。同時にまた、他のすべてのものが神に依存すること、神が欺瞞者ではないこと、を理解しており、これらのことから、私が明晰判明に認知するものはすべて必然的に真である、との結論も得ている。(第五省察) ↩
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さて、他方、順序にかんして言えば、私たちのすべての理解が順序づけられ、かつひとつにまとめられるために求められるのは、なしうるかぎり早く、また理性が要求するところに従って、すべてのものの原因であり、そのためまたその対象的本質が私たちのすべての観念の原因である何らかの存在者が存するかどうか、それと同時にその存在者がいかなるものであるかを探究することである。(第99節) ↩