スピノザによる神の定義は以下だ。

神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。(定義六)

この定義は、デカルトが見出した神を、デカルトよりも洗練した形で定義したものである。ただし、属性の数を無限にすることで、デカルトだけではなく、より広い範囲の人々にも通じる定義になっている。ここでは、属性の数を無限ではなく、二つしかないという想定で考察しよう。なぜ、スピノザが無限の属性について語れるのかについては、第二部の箇所で考察する。

デカルトが認識した神

属性概念についての理解を踏まえた上で、デカルトが自己の不完全性を意識し、神を認識した際の状況をもう一度振り返ってみよう。
デカルトは、暖炉の側から離れ、外に出ることで我の不完全性を意識した。このときに認識したのが、延長属性だ。外界にあるものはすべて、延長という共通性質を有している。延長は無限に広がり、すべての物体を包み込むものであり、それは何ものにも制限されることがない。これは、有限で不完全である我の本質とは異なるものだ。
デカルトはまた、思考属性も認識する。観念や意志は、一つの思考のうちにあるものとして現れる。思考は無限に広がり、すべての思考様態を包み込むものであり、何ものにも制限されることがない。これもやはり、有限で不完全である我の本質とは異なるものである。
デカルトは、二つの属性がそれぞれ我とは異なる実体の本性であること、さらには、その実体が同一のものであることを認識する。今、デカルトの前には一つの実体がある。その実体は、自然全体のみならず、我の思考をも包み込むものだ。この実体が、即ち神なのである。

絶対的な無限としての神

この神は、最高の完全性を有し、かつ何らの制限を含まない存在として認識される。
それは、神の本質を形成している延長属性と思考属性が、無限性を持っているからである。延長属性は広大無辺で、何ものにも制限されることがない。これは思考属性についても同じである。それゆえ、延長属性を通して神を認識しようと、思考属性を通して神を認識しようと、それは何らの制限を含まないものとして認識されるわけだ。
さらにこの神は、絶対的に無限なものである。延長と思考は、それぞれ自己の類において(in suo genere)は無限だ。だが、一方に延長属性の無限、他方に思考属性の無限というように、どちらにも自己の無限の内に含まれないものが存在する点で、その無限は絶対的なものではない。だが、神は全ての属性を含むがゆえにそのような制限はなく、よってその無限は絶対であるということができるのである。
デカルトが、神を最高の完全性を有し、かつ何らの制限も含まないものとして定義したのは、ここに起因するのだ。

われわれが最高に完全であると理解し、そして、そのうちに何らかの欠陥ないし完全性の制限を含むものが全く把握されない実体は、神と呼ばれる。(「諸根拠」定義八)

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