定理一~三
第三部以降には、読者が躓き反発するだろう証明の前に、既に行ったものと同じ証明を繰り返している箇所がいくつかある。その一つが定理一~三だ。
第三部では、共通した自然の法則に従うものとして、感情を説明しようとする。感情とは観念の一種であり、「人間の行動と衝動とを線・面および立体を研究する場合と同様にして考察」できると主張するわけだ。
これは、以下のような反発を受けるだろうと、スピノザは想定する。
- 感情がすべて必然的な仕方で生じるとは言えないのではないか
- 意志によって精神の受動に対処することは可能ではないか
そこでスピノザはあらかじめ、「そのような疑念が生じる余地は、第三部が始まった段階で既に否定されている」と答えるわけだ。
定理一
定理一は、観念と精神の関係性についてだ。観念が妥当ならば精神は働きをなし、非妥当ならば働きを受ける、という内容である。
我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。(定理一)
この定理が何を問題としているかは、スピノザが誰を想定して話しているかがわかると明確になる。ここでの想定相手は、「神はその力により、個々の観念に介入することができる」と主張する者だ。この主張が真であれば、私の精神が観念によって一意的に決まるとは言い切れなくなる。観念の一種である感情を、一意的に説明することも不可能になるわけだ。だが、神がそのような力を持たないこと、よって観念に偶然の余地がないことは、既に第一部定理一六~三六で否定済みである。スピノザは、そこで行ったのと同じ議論を繰り返すことで、この定理を証明している。
定理二
定理二は、心身の相互作用についてである。具体的には「身体は精神の命令だけであるいは運動しあるいは静止」する、「行動の多くは精神の意志と思考の技能にのみ依存している」と想定する者が批判対象になっている。これが真であれば、観念の一種である感情を一意的に説明することも不可能になるわけだ。
心身に相互作用がないことは、第二部定理一~七で否定済みである。スピノザは、第二部一~七で行った議論を繰り返すことで、この定理を証明している。
身体が精神を思考するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない。(定理二)
定理三
以上を踏まえた上で、精神の能動と受動の原因について考察しよう、というのが定理三だ。
この証明の基礎となるのが、第二部で考察した精神の本質である。我々の精神は、人間身体と外部の物体の接触で生じた観念によって構成されている。人間精神は多くの観念で形成されており、そのあるものは妥当で、あるものは非妥当だ。そうである以上、精神の能動と受動も、観念の妥当性と非妥当性とによって説明できることになるだろう、なぜなら他に原因となりえるものなど存在しないのだから、となるわけだ。
精神の能動は妥当な観念のみから生じ、これに反して受動は非妥当な観念のみに依存する。(定理三)
そこで受動は、精神が否定を含むあるものを有する限りにおいてのみ、あるいは精神が他のものなしにそれ自身だけでは明瞭判然と知覚されないような自然の一部分として見られる限りにおいてのみ、精神に帰せられるということが分かる。(定理三備考)
ただし、この時点ではこの定理はしっくりこないはずだ。というのは、受動の中身についてはまだ何も語ってないからである。これ以降の定理でなされる個々の感情の分析を経ることで、この定理も理解できるようになるだろう。