神への愛・神の自己愛
神への愛
スピノザは、神への愛は第三種の認識によって生じるとする。
まずは、愛の定義を思い出してみよう。
愛とは外部の原因の観念を伴った喜びである。(第三部諸感情の定義六)
喜びの感情とともに外部の対象を見ることにより、外部の対象と喜びの感情を結びつけることになる。そして、その外部の対象を想起しただけで、喜びの感情に刺激されるようになる1。これが愛の定義である。これを踏まえて、第三種の認識について考えてみよう。
第三種の認識の際に認識するのは、神のみである。かつ、そこにおいては、必ず喜びの感情を持つことになる。これにより、第三種の認識をする際には、神の観念を喜びの感情とともに想起することになる。つまり、神を愛することになるわけだ。
神の自己愛
神の精神
スピノザは、神の自己愛についても語っている。いきなり第五部を読んだ者は、神が感情を持つかのような記述に戸惑うかもしれないが、第五部以前の内容を正確に把握している者であれば、これは容易に理解することができる。
- 神は個物である
- 個物である神は精神を持つ
と順を追って考察するのがわかりやすいだろう。
まずは、個物について考察したことを思い出してみよう。個物は、次のように定義されていた。
個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。(第二部定義七)
個物とは、一定のまとまりを持ち、一定の運動をするものである。そこに絶対的な基準は存在せず、そう見えるからそうだ、という以上のことを言うことはできない2。したがって、個物の範囲は非常に広い。そのように私の前に現れれば、それを個物だと言えてしまうからだ。だから、家族でも、民族でも、国家でも、それを個物としてもいいことになる。これをさらに進めれば、自然全体、すなわち神も一つの個物だということになるわけである。
次に、観念について考察したことを思い出してみよう。観念とは、外部の物体が人間身体に接触することで生じるものである3。そして、この観念によって構成されるのが人間の精神である。これを認めるならば、人間以外のものが観念や精神を有すると主張してもいいことになる。複数の物体同士が接触する事態は、人間身体を離れた場所でも起こりうるからだ。したがって、動物や植物が精神を持つと言ってもいいし、国家が精神を持つと言ってもいい。さらには自然全体、すなわち神が精神を持つと言ってもいいわけである4。そして、神に精神を認める以上、神に感情を認めてもいいことになる。
神が持つ感情
人間においては、外的な物体が人間身体に接触することで観念が生じる。このため、接触しない限りにおいて、外的な物体がどのような本性を持つかは分からない。つまり、その観念は非妥当なものとなるのだ5。人間は、同じ外的な物体に何度も出会い、その観念を整理するといった漸次的な仕方で、妥当な観念を形成するのである。一方神においては、全ての個物が互いに接触することで観念が生じる。このため、人間のように、接触しない限りにおいてその個物の本性が分からない、という事態はありえない。よって、神の持つ観念は全て妥当であることになる。そして、神は非妥当な観念を持たないため、持つのは喜びの感情と自己の衝動のみ、ということになる。
神による自己愛
神はすべてをその内に含むゆえ、神以外の個物は存在しない。我々人間のように、他の個物を意識する事態はありえないわけだ。よって、神が表象するのは神自身ということになる。かつ、そこにおいて意識することになるのが、喜びの感情だ。これにより、神は両者を結びつけ、自己自身を喜びの感情とともに想起することになる。つまり、神は自己自身を愛するわけだ。
また、神はすべてをその内に含むものであり、当然、人間もそこに含まれる。ここから、人間が神に対して抱く愛は、神の自己愛の一部であることになる。
第三種の認識と神への愛
このように、神の愛についても第三種の認識によって説明することができる。ある者が神への愛を持ち、その愛が神の自己愛であることを感じるためには、第三種の認識が必要なのだ。
そして、偶然的な接触で形成されるまま、周囲のものについて漠然とした観念を持つだけでは、第三種の認識にも、神の愛にもたどり着くことはできない。そこに至るには、事物の一致点・相違点・反対点を比較し、妥当な観念を形成する必要がある6。つまり、無知の者は神の愛に至ることができないのである。迷信家は民衆の無知を称賛するかもしれないが、それは全くの嘘なのである。
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第三部 - 愛と憎しみを参照 ↩
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第二部 - 観念の分析を参照 ↩
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第二部補論 - 神の精神を参照 ↩
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物を第三種の認識において認識しようとする努力ないし欲望は、第一種の認識から生ずることはできないが、第二種の認識からは生ずることができる。(定理二八) ↩